阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年1月9日
「誰が世に勝つか」
Tヨハネの手紙5章3-5節

 きょうも皆さんと共に礼拝をささげられることを心より感謝します。
沖縄や東京では急速にオミクロン株のコロナ感染が広がっているようです。すでに第6波に入っているようで、まん延防止等措置が発令されました。オミクロン感染は、肺炎症状は出ないことが多いようですが、感染すればやはり大変なことになると思います。一層注意しながら、生活していきたいと思います。
2022年を迎えています。皆さんがそれぞれ新しい信仰の決意もって新しい年を歩み始められたことと思います。
今年はエフェソ5章8節の御言葉が与えられ,私たちは光の子として歩み出しています。
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)
私たちは、主イエスの尊い十字架の救いを受け、罪許され、永遠の命を与えられて神の子とされました。神の子は、光の子です。
Tヨハネ5章1節には、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも」とあります。
神の子、光の子にふさわしい歩みを探って参りましょう。
ヨハネの手紙は、1〜3までありますが、著者はゼベダイの子ヨハネです。ガリラヤ湖の漁師をしていた時、兄のヤコブと共に主イエスに召され12弟子とされました。若いころはボアネルゲ(雷の子)と呼ばれるほど、激しい気性であったようですが、晩年は穏やかに、エフェソの教会の長老として、主イエスに仕えました。年をとってからは、講壇によりかかるようにして、「兄弟達よ、互いに愛し合いなさい」と説教したので、「愛の使徒」と呼ばれるようになりました。
ヨハネはパトモスで幻をみて、黙示録を記録した人でもあります。
主イエスがゲッセマネで逮捕され、十字架に架られた時、弟子たちは逃げたのですが、ヨハネは十字架近くにいました。
主イエスに母マリアを託され、自分の家に引き取りました。
主イエスの愛する弟子として、最後まで主から離れることをしませんでした。
ヨハネは、主イエスの十字架での一部始終を目撃した弟子でした。
主イエスが十字架で表された愛の目撃者だったのです。
ヨハネは主イエスの愛を知りました。そして、主イエスの愛を語り、この方を愛することこそ、新しい戒めであることを教えたのです。
神を愛するとは、その掟(御言葉)を守ることだとあります。
そして、その掟は難しいものではないともあります。
私たちは主イエスを愛しています。主は私たち一人一人を愛し、十字架で命を捨ててくださった方です。
愛するとは、口先で愛していると言うことではありません。その教えを守ることなのです。
Tヨハネ3章18節には、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」という御言葉が記されています。
福音書に、主イエスに永遠の命を得るには何をしたらよいのかと尋ねた、律法学者の姿が記されています。この人は、イエスを試そうとしてこのような質問をしました。自分は律法の専門家であると自負していたのです。主イエスに、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカ10:25)と尋ねました。
主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞きました。律法学者は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」(ルカ10:27)と、答えました。主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい」(ルカ10:28)と、お答えになりました。
愛を実行するようにと教えられた律法学者は、自分を正当化するため、「では、わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)と聞いたのです。この律法学者は、聖書の教えを知っていました。そして、それを守っていると思っていたのでした。
しかし、愛は律法を完成することを知りませんでした。
御言葉は、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。(ローマ13:9,10)と、教えています。
律法を知っていても、神と人の為に自分をささげることなどは、心に全くありませんでした。律法を単に知っているだけで、守っていると自分で思っているに過ぎなかったのです。
この学者は、神を愛すること、それは御言葉に従う事であり、その掟は難しいものではないことを知りませんでした。
神の御言葉に従うことは、大変難しいことのように思ってしまうかもしれません。しかし、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」(Tヨハネ5:4)と、教えています。
「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(Tヨハネ5:4)と、続けられています。
神から生まれた人、それは主イエスの十字架の贖いにより、罪許され神の子とされ、光の子とされ、永遠の命に生きる人の事です。
神の子は、信仰によって世に勝利します。
主イエスが仮庵の祭りの最後の日に叫ばれたように、その人の内から生きた水が川となって流れ出ます。内にお住まいくださる聖霊が愛に満たし、溢れ流れ、愛を表す者とされるのです。
主イエスによって神の子とされた者は、信仰により常に勝利です。
主イエスは、隣人を愛することを、善いサマリア人のたとえで教えてくださいました。
ユダヤ人は、サマリア人を軽蔑し、忌み嫌って決して付き合うことはありませんでした。言葉を交わすこともありません。旅をする時もサマリアの地を避けて、遠回りしてでも通らない様にするほどでした。
主イエスのたとえ話はこのような話です。
ある人がエルサレムからエリコヘ行く途中、強盗に襲われて半死半生の目にあいました。大変さみしい山道で、危険な旅でした。
殴られて服をはぎ取られ倒れて、起き上がれない人の所へ、祭司が通りかかりましたが、助けてもらえませんでした。次にレビ人が通りかかりましたが、やはり助けてくれませんでした。祭司もレビ人も神殿で神に仕える人たちです。もちろんユダヤ人であり、同胞です。しかし、道の向こう側を通って行ってしまいました。
三番目に通りかかったのは日頃から嫌っているサマリア人でした。サマリア人は怪我をして苦しんでいる人を見て、かわいそうに思ってその場で丁寧に手当てをしました。自分のロバに乗せて、宿屋まで連れて行きました。強盗に襲われた人は、助けられたことでどんなに安心したことでしょう。サマリア人は、翌日宿の主人に、けが人を介抱するように頼み、治療費まで渡して、足りなかったら帰りに寄った時支払うとまで約束しました。
サマリア人は、自分とは何のかかわりもない旅人を心配して、時間を使い、力を使い、金銭を使い、具体的に助けました。
誰が強盗に襲われてけがをした人の隣人になったのでしょうか。サマリア人でした。主イエスは、「あなたも行って同じようにしなさい」と、教えられたのです。
神の子とされた者は、主イエスの十字架の愛に満たされ、愛を喜びます。愛が力になります。主イエスのアガペーの愛を表す力です。愛の手を差し出すことができるのです。
2022年が始まり、個々人の生活でも、生活や環境が変わることがあるかもしれません。新しく踏み出す予定が控えているかもしれません。
どのような中にあっても、世に打ち勝つ勝利の信仰によって主イエスの愛を表しながら歩むことができるのです。
私たちは、世と罪に打ち勝つ勝利の信仰によって歩むのです。
主のお語り下さる御言葉を喜び、神と人を愛し、御心が成る年であるようにと、祈りつつ勝利の喜びを賛美しましょう。

今週のみことば
「誰が世に打ち勝つか。
 イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
 第一ヨハネの手紙5章5節


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