阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年1月16日
「神をたたえるために」
エフェソの信徒への手紙1章3-7節

 寒い日が続いていますが、今日も守られて、共に集まり礼拝できることを心から感謝します。
私たちは主イエスの尊い十字架による救いを受け、神の子とされました。光の子として輝きながら歩み続けます。
私たちが救われて、クリスチャンとされてから、その生き方が全く変えられました。
聖歌に、「神なく望みなく さまよいしわれも、 救われて主をほむる身とはせられたり」という賛美があります。(聖歌451)
この賛美のように、真の神を知らず、罪の中を迷い、生きる目的も定かではなかったような者を、主イエスは救い上げてくださいました。
主イエスを信じて何がどのように変えられたのでしょうか。
イエス・キリストの名により、どのような時も祈り、より頼むことができるようになりました。人に頼るなど、自分の弱さをさらけ出すようなことはできないと頑張って来た人が、幼子のように父なる神を慕い、その御手に頼るようになったのです。まことに幸いなことです。
天の父は、神の子を愛して、素晴らしい祝福で満たしてくださいます。
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(エフェソ1:3)とあります。
神の子として天地創造の前から選び、愛してくださる神をほめたたえています。
エフェソの信徒への手紙は使徒パウロが記したのですが、原文ではなんと、3節から14節までピリオドなしで綴られています。翻訳は難しい所だと思います。
パウロは神に対する感謝と賛美と喜びが溢れ流れて、文章をとどめられなかったのです。
神は天地創造の前から私たちを愛して、どのようになさろうとお考えになったのでしょうか。
「ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とあります。
聖い者、汚れのない者としてお選びになったのです。
聖なる者とは、神によって選び分かたれた者という意味があります。この世に生きていながら神の国の民とされて、神の御心を求めつつ歩む者の事です。
この世では旅人であり、寄留者であって、国籍は天にあります。
神の国から遣わされて、今この世にあるのが、聖なる者なのです。
「汚れのない者」とは、旧約時代の犠牲のささげものと関連して理解することができます。
犠牲とされる動物は、傷のない最上のものであることが条件でした。ふさわしくないものは、除かれてしまいました。動物の犠牲は何度も何度もささげなければなりませんでしたが、完全ではありませんでした。しかし、主イエスは、御自分をただ一度十字架でささげてくださり、私たちは聖なる者、汚れのない者とされました。
「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」
(ヘブライ10:10)
神に選ばれるとは、何より素晴らしいうれしいことです。
神は愛という一つの理由で、私たちをはじめから選ばれたのです。
エフェソという町は、大変栄えた町ですが、偶像礼拝が盛んな町でした。アルテミスという女神の神殿があって、人々はこの豊穣の女神を崇めていました。この女神と、神殿があるので、利益を得ていた人々も大勢いました。道徳的にもいかがわしいところの町でした。
パウロはコリントからエフェソに入り、人々に福音を伝えました。もうすでにクリスチャンがいたので、この人たちに聖霊のバプテスマを教えました。パウロはティラノの講堂で2年間教え続けました。悔い改めた人々も多くいたのですが、妨害も激しくなりました。
アルテミス神殿の模型を売って儲けていたデメトリオとその仲間が、パウロの伝道を妨害して大騒動になった記事が、使徒言行録19章には記されています。
人々は劇場になだれ込んで、「エフェソのアルテミスは偉い方」と叫び続けました。やっとのことで騒動が治まった後、パウロはエフェソを後にしました。
エフェソは今も遺跡が残っていて、劇場も残っています。大勢の観光客が訪れてメインストリートを歩いていますが、パウロの時代もそのように人が大勢歩いていた、栄えた町でした。
そのようなエフェソで伝道が続けられて、救われる人々が起こされて教会が建て上げられました。
エフェソの教会の長老として、後に使徒ヨハネが立てられて用いられました。
アルテミス信仰の町であり、アルテミスの御利益で生活する人々も多かったエフェソに、救われる人々が起こされ、イエス・キリストを信じて従う群れができました。どのような町でも救いの御業は起こります。
パウロはエフェソの教会に対して、「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ」(エフェソ1:1)と呼びかけ、挨拶しました。エフェソの信者たちは、キリストを信じることにより、新しく生まれかわり、生き方、考え方、価値観が全く変えられたのです。
彼らは、神を賛美する者になりました。1章3節に、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」とあります。まず、父なる神を賛美しています。救い主イエスを、お遣わし下さった父への賛美です。
天の父はいつ私たちを覚えてくださったのでしょうか。
パウロは自分が神に召されたことを、証ししています。
「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召しだして下さった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき・・・・」(ガラテヤ1:15、16)と、告白しています。
旧約の預言者エレミヤは自分の召しについて、記しています。
「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた』」(エレミヤ1:4,5)
と、神の召しを記録しました。
パウロも、エレミヤも、母の胎内にいる時から、天地の始まる前から、神に選び分かたれ(聖別)ていたことを告白しています。
このように私たちも神の子とされたことは偶然ではなく、神の計り知れないご計画であったことは、言い尽くせない感謝です。
贖われた目的、それは、恵みにより、キリストの十字架によって、罪許されたことをこの世に示し、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」とあります。
(エフェソ1:6)
贖いとは、代価を払って買い取られることです。買い戻されると考える方がわかりやすいかもしれません。神の子であったのに、迷い出ていた者が、キリストの十字架の血により、買い戻されて神の許に戻ることができたのです。罪に支配される者から、恵みにより真の命に生きる者へ生まれ変わりました。
新しく生まれた者の心と魂と口には、賛美が溢れます。神をほめたたえる舌、唇です。
泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。私たちの口から苦い言葉と賛美が同時に出ることはないのです。
私たちの全存在は神をほめたたえるためにあります。
日ごと、夜ごと神をあがめ賛美する、その素晴らしい恵みの内を生涯歩み続けるのです。
私たちを子として受け入れ、愛して下さる父を見上げ、より頼み、絶えない賛美と感謝をささげながら進み、すべてが恵みであり、勝利であることを、なお歌うことができるのです。
わたしたちの生涯は「ハレルヤ」の生涯です。

今週のみことば
「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、
わたしたちがたたえるためです。」
エフェソの信徒への手紙1章6節


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