阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年1月30日
「キリストの体 教会」
 エフェソの信徒への手1章23節

 新型コロナ感染が拡大しています。拡大防止の為に1月23日から礼拝をYouTubeでささげ、すべての集会を休会しています。
今流行しているオミクロン株は、感染力が非常に強く、いつ誰が感染してもおかしくないほどの状況になりました。
また、オミクロン株の亜種がすでにはやり始めているそうですので、気を緩めることができません。一日も早いコロナ終息を引き続き祈りましょう。
このような息を潜めるような生活が続きますが、主イエスと主の御言葉は私たちに希望を与え続けてくださいます。
日々御言葉に励まされ、主イエスを見上げて進みましょう。

パウロは、エフェソの信徒たちへ、「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」(エフェソ1:15、16)と、記しました。
こういうわけとは、1章の3節から14節までの言葉を受けて記しています。
先々週の礼拝では、このエフェソの個所から御言葉をいただきました。
私たちは、キリストの十字架の贖いのお陰で、義とされ、神の栄光をたたえるために選ばれたと、力強い御言葉に改めて恵みを喜び、感謝しました。
神は、天地創造以前から私たちを愛し、選び、神の御前に聖なる者、汚れのない者として受け入れてくださいました。神ご自身をたたえるためです。
その恵みを前提として、15節には「こういうわけで」とあるのです。
パウロは祈る人でした。「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」(1:16)と、書き送りました。
祈るごとに、エフェソの教会を覚えて感謝したのです。
感謝の理由は、エフェソの教会の信徒たちが、「すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」とあるように、教会が愛を表していたからです。
それも、近しい兄姉にだけではなく、広く信仰の同労者に何かの形で愛を表していることが、パウロの耳に入っていたと思われます。
パウロはまた、エフェソの信徒たちの為に祈りました。それは、神を深く知ることができるようにという祈りでした。
「知恵と啓示の霊」、すなわち聖霊に満たされ、心の目が開かれるようにと祈ったのです。
主イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16:13)と教えられました。聖霊は、心の目を開き真理を悟らせてくださいます。
パウロがどのようにしてエフェソでの伝道を続けたか、先々週の礼拝でも触れています。パウロたちに反対するアルテミス神殿の銀細工人たちの扇動で町中が大騒動になりました。
その後、パウロはマケドニアへ渡りましたが、エルサレムへ帰ることにしました。パウロは五旬祭までにエルサレムに到着したかったので、帰りの航海の途中、エフェソには寄らないことにしていました。それで、ミレトスに、エフェソの教会の長老たちを呼んで、最後のメッセージを語りました。
パウロは長老たちに、教会は神がキリストの血によってご自分ものとされたのであり、様々な試練や苦境にたたされるけれど、目を覚ましていなさいと励ましました。あなたがた自身と群れ全体とに気を配るようにと教えました。
パウロは、「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」
(使徒20:31)と、語りました。
パウロは、もう二度とエフェソの長老たちに会うことはないと伝えたので、長老たちは悲しみながら別れを告げました。
「御言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)とさらに励まし、エフェソ教会は、神とその恵みの御言葉に委ねられました。
パウロの祈りは、神を深く知ること、心の目が開かれることでした。
そうすると、神が備えてくださるあらゆる恵みを知り、確信できるようにされるのです。神は何を備えておられるのでしょうか。
「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(エフェソ1:18)、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」(エフェソ1:19)とあるように、天の資産が備えられていることを悟ります。
ペトロの第一の手紙にも、このように記されています。
「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Tペトロ1:4)  地上の財産は一瞬にして失われることがあります。よく、財産が目減りしたということも聞きます。強盗が財産を奪うこともあります。人は財産のことで一喜一憂し、争うことがあります。財産で、幸福を得られず、かえって争いや不幸の原因になることさえあります。
私たちの為に天に蓄えられている財産は、やがて確実に私たちが受け継ぐ資産です。この世にある資産ではありません。
神の国、そしてそこにおられるイエス・キリストこそが、何にも代えがたいすばらしい栄光の資産です。
パウロは、神の絶大な力を説明するために、キリストの復活について記しました。
キリストは神の子でありながら、それに固執することなく、僕の姿をとられて、ヘリくだり、それも十字架の死に至るまで従順でした。
キリストの十字架の死と復活は、罪と死に対する絶対的な勝利です。
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(エフェソ1:20、21)
キリストの権威、主権、勢力について記し、さらにすべてのものの上にある頭としてキリストを教会にお与えになりました。
言うまでもなく教会とは、建物の事ではなく、キリストを信じ、十字架により罪許され義とされた者の群れの事です。
私たちは、天にある資産を受け継ぐ者ですが、それは確実な約束です。エフェソ2章5,6節には、「罪の為に死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです。―
キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」とあります。
私たちは、キリストと共に新しい命に生かされ、天の王座に着くものとされたのです。神の子、光の子は、キリスト共に王座に着かされたのです。
そのような者の群れが教会であり、キリストはその群れ、教会の頭です。
教会は見えないキリストを、見えるようにする働きがあります。贖われた一人一人が生けるキリストを表すのです。
キリストの体である教会は、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)
信じる者の群れ、教会は生きておられるキリストの体であり、臨在の満ち満ちた場です。
キリストを頭とする教会である私たちが共に集まり、礼拝をささげ、賛美するキリストの命の共同体であること、キリストが満ち満ちている場であることをあらためて確信しましょう。神の子であり、天の王座に着いているにも関わらず、下を向き、臨在を消してしまってはいけません。
神の溢れるばかりの臨在の中、頭である主を見上げ、主イエスを崇める教会として前進していきましょう。


今週のみことば
「教会はキリストの体であり、
 すべてにおいてすべてを満たしている方の
 満ちておられる場です。」
 エフェソの信徒への手紙1章23節




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