阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年2月13日
「神の民とされた」
Tペトロの手紙2章9-10節

 主の恵みにささえられ、今朝もYouTubeで礼拝しましょう。
それぞれ所は離れても、今日も心を合わせることができて感謝します。
新型コロナウイルスの感染拡大はまだまだ収まりそうにありません
皆様と顔を合わせることができませんが、感染拡大が終息し、何の心配もなく教会に集える時が備えられていることを信じます。
私たちは、日々、神の生ける御言葉に生かされていることを感謝します。
人や世は移り変わり、いつか失われて行きますが、主の言葉は永遠です。
「『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
(Tペトロ1:24,25)。生ける御言葉に慰められます。
御言葉は、私たちに、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(Tペトロ2:1)と、勧めています。
人は生まれながらに罪を持ち、「悪意」以下に捨て去るべきものとして挙げられています。そのような思いに、支配されることがあってはなりません。キリストは人の罪を贖うために十字架に架られたのです。
罪に気づいたら、直ちに十字架の許で悔い改めることができるのです。
私たちは何を慕い求めていくのでしょうか。生まれたばかりの乳飲み子のように、「混じりけのない霊の乳を」慕い求めます。
生まれたばかりの赤ちゃんは、無心に自分の糧となる乳を求めます。
命を保持し、成長するためです。
私たちはそれ以上に霊の乳、神の言葉を熱心に求め続けるのです。
神の言葉は、「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(詩編19:11)と詩編にはうたわれています。
この世で一番価値のある物として純金があげられていますが、その純金よりも御言葉は慕わしいものだと告白しました。
主の御言葉は真理であり、心に喜びを与え、魂を生き返らせ、清らかで、目に光を与えるのです。光の子は御言葉に生かされます。
「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく 蜜よりも蜂の巣の滴りよりも甘い」(詩編19:11)とあります。
この世で魅力的で、価値あるものの代表として、金、それも混じりけのない純金があげられています。また、甘い味覚の代表として、蜜、蜂の巣の滴り、すなわち蜂蜜が挙げられました。
当時、甘みはナツメヤシの蜜などから摂っていたようですが、それらに比べると、蜂蜜は最高の甘味だったのです。
主の言葉は尊いものであり、蜜よりも甘いとうたわれました。
信仰者は生涯霊の乳を慕い求めて成長していきます。聖なる祭司として神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げるものとされます。
礼拝者として整えられていきます。いけにえとは、全焼のささげものを意味します。
旧約聖書の時代には、神殿で犠牲をささげることができるのは祭司のみでした。特別に任職され、祭司の家系からでた者がその務めに当たりました。祭司には任職の油が注がれました。
しかし、イエス・キリストの十字架による、新しい恵みの時代が到来し、神の子とされた者、光の子は神の前に犠牲をささげる祭司として、任命されました。
主イエスは、「私があなたを選び任命した」と言われます。
私たちがささげるべき霊のいけにえとは、いったい何でしょうか。
ヘブライ人への手紙13章15節には「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。」とあり、続けて、「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(ヘブライ13:16)と、教えています」
賛美をささげることを、賛美のいけにえであると教え、また、私たちに委ねられている様々な具体的なもの、例にあげれば時間、能力、財などをささげるなら、神に喜ばれるいけにえなのです。人の為にとりなすことも、いけにえをささげることになるでしょう。愛の犠牲です。
さらに、神が私たちにおしえておられるいけにえは、自分自身であることを覚えることができます」。
私たちが贖われて、どのような者とされたかを聖書は教えています。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招きいれてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(Tペトロ2:9)
ペトロの手紙は、各地に離散しているユダヤ人また、異邦人クリスチャンに宛てた手紙です
激しい迫害や試練の中にあるキリスト者たちに宛てて、キリストの十字架の贖いによってどのような特権と身分を持つ者にされたかを記しました。苦しみの中にある人々は慰められ、信仰に立つことができました。
キリストは、ご自身を神の小羊としてささげられ、十字架で命を捨ててくださいました。その愛の犠牲により、私たちは、憐みを受けました。
かつては、神の民ではなかった者、憐みを受けなかった者が、神の豊かな憐みを受け、神に近づき、霊のいけにえをささげて礼拝する祭司として任じられているのです。
私たちがささげるいけにえは、私たち自身です。主にささげつくしても、何もなくすわけではありません。豊かに祝福を与え、豊かに用い、世に輝く栄光の光としてキリストの光を輝かします。
コロナウイルスの拡大が続く中、うつむくような生活が続きます。
しかし、その中にあってこそ、驚くべき救いの光を広く伝えるチャンスなのです。神の憐みを受けた民として、キリストを広く伝えて行きましょう。

今週のみことば
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、憐みを受けなかったが、
今は憐みを受けている。」
 Tペトロの手紙2章10節


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