阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年2月27日
「同じ戦いを」
フィリピの信徒への手紙1章27-30節

 主を崇めつつ今日も礼拝をささげましょう。
残念なことに、兵庫県でも蔓延防止等重点措置が3月6日まで延長されました。
まだもうしばらくの間、YouTubeで礼拝をささげたいと思います。
礼拝する所は離れていても、私たちは御霊によって一つです。互いの為に祈り合い、励まし合って行きたいと思います。
私たちは、主イエスの十字架の贖いにより、救われて神の子とされました。光の子です。
聖書は、神の子の歩み方を教えています。
今日は、フィリピ1章の27節以下の御言葉に耳を傾けたいと思います。
御言葉は、まず「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(エフェソ1:27)と、教えています。
キリストの福音にふさわしい生活とは、どのような生活なのでしょうか。私たちは、主イエスを信じているのですから、立派な良い行いを通して、証ししていきたいと願います。
それは本当に大切なことですが、自分の肉の力で、こうしなければいけない、ああしなければいけないと、自分を縛り付けるようになると、御心から外れてしまいます。自分が縛られるだけではなく、人の行いや生活を見て、「それは御心ではない、不信仰だ」などと、裁くようになってしまうこともあります。
「福音」の意味について考えてみましょう。もちろん、福音とは良いお知らせです。この世にとってこれ以上ない最良のニュースです。神の愛の現われです。
神の子イエスが、すべての罪を背負われ、黙して十字架に架り、身代わりの死をとげ、信じる者の罪を完全に贖われたのです。
主イエスは十字架で死なれましたが、3日目に甦られ、今生きておられる救い主です。
だれでもキリストを救い主として受け入れるなら、罪を赦され、永遠の命に生かされます。これが福音です。
福音にふさわしい生活の第一歩は、人を見るのではなく、自分の行いを評価するのでもなく、ひたすら救い主を仰ぎながら日々歩んで行くことなのです。
フィリピの教会の信徒たちは、信仰の戦いを戦っていました。
フィリピの町の伝道については、使徒言行録16章に詳しく記されています。パウロとシラスは占いの霊に取りつかれた女奴隷を癒したことから逮捕され、何度も鞭打たれて一番奥の牢屋に足枷を付けられて投獄されました。しかし、彼らは傷の痛みや理不尽な逮捕を呻くのではなく、賛美をしたのです。真夜中、囚人たちは賛美に聞き入っていました。
大地震が起こって牢の扉がみな開き、獄吏は囚人が逃げてしまったと思って自害しようとしました。パウロが大声で止め、その夜、獄吏と家族は主イエスを信じ、バプテスマを受けました。家族が主イエスを信じる者にされたことを喜んだのです。
福音を伝えると、反対者が迫害をします。私たちも、何とかして福音を伝えたいと伝道します。
しかし、そこに戦いがあります。これは、霊の戦いです。迫害こそありませんが、反対されたり、拒絶されてがっかりすることもあるのです。
福音を伝えることは霊の戦いです。
また、私たちは、救われていながらも自分自身の内なる信仰の戦いがあります。罪との戦いです。肉の思いとの戦いです。
パウロは自分自身の証しとして、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:20)と、告白しています。しかし、罪に支配される心の弱さを訴えつつも、勝利を確信して、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ8:1)と、凱歌をあげています。
それは、ひとえに、キリストの十字架の贖いによります。罪の法則から解放されました。
霊の戦いは、キリストにあって、必ず勝利することができます。
御霊によって、一つにされること、御霊によって信仰にしっかり立つこと、心を合わせることが教えられています。
私たちはキリストの命に結ばれている共同体です。同じ命に生かされています。
キリストの体の部分部分として組み合わされ、一つとなり、成長し、戦いを戦います。孤独な戦いではなく、御霊によって一つであり、心を合わせて共に戦うことができるのです。
どんなことがあっても、たじろぎません。恐れる必要もありません。
戦いは私たちにとって勝利であり、反対者にとっては、滅びに繋がるとあります。
さらに、苦しみさえも、恵みとして与えられていることを覚えましょう。だれでも、苦しいことは避けたいと思います。
思いがけない苦しみがやってくるとき、私たちは何を思うでしょうか。祈りをささげてきたことが、自分の思いと違う形で答えられた時、なかなか受け入れがたい思いをするのではないでしょうか。
廣瀬牧師と私は、毎日「コロナウイルス感染からすべての人が守られ、教会の兄姉が守られ、速かにコロナ禍が終息するように」と祈り続けました。
結果は残念なことになりました。しかしこの困難と同時に、主イエスの恵みの御手がすでに延ばされており、良い方向に向かいつつあります。
「なぜ、このようなことになるのか?」と、思いました。
しかし、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストの為に苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(エフェソ1:29)この御言葉に感謝しました。
今回の苦しみは、福音のための直接的な苦しみではありませんでしたが、苦しみも恵みとして与えられているという御言葉が強く迫りました。
旧約聖書に登場するヨブは、多々試練を受け、自分は頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかり、素焼きのかけらで体中をかきむしらなければならない状態でした。
大変な試練の中で、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ2:10)と告白して、神に不平を言わず、言葉によって罪を犯しませんでした。神を信頼し、ひたすら仰いだのです。苦しみを受け入れました。
パウロは、「あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」(フィリピ1:30)と、続けました。
パウロが戦ってきた信仰の戦いは続いています。それを担うのは、私たち神の子であることを教えています。
同じ戦い、それは、福音を伝えていく戦いであり、わたしたちの内なる罪との戦いであり、信仰の戦いです。
キリストを仰ぎます。私たちに勝利の力はありませんが、主イエスは世と罪に完全に打ち勝たれ、わたしたちを勝利させてくださいます。
「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:23)
顔を上げ、主を仰ぎ、勝利の主イエス・キリスト結ばれていることを喜び、勝利を確信して賛美をささげようではありませんか。


今週のみことば
「だれが世に打ち勝つか。
 イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」
Tヨハネの手紙5章5節



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