阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年3月6日
「罪を赦す権威」
マルコによる福音書2章1-12節

 主を崇めつつ今日も礼拝をささげましょう。
一人一人礼拝をささげる所は違いますが、御霊によって一つとされ、真の神に向かって賛美をささげ礼拝しましょう。
兵庫県の蔓延防止等重点措置が今日解除されれば、13日から教会に集まり、聖日礼拝をささげ、SSを再開したいと思います。
必要な準備をしたいと思います。
万一、延長されることになれば、もうしばらくYouTubeで礼拝をささげましょう。
私たちの主が、最善の時を備えてくださることを信じ、心より崇めます。お互いのために祈り合いながら、一つとなってコロナ禍という試練を乗り越えていきましょう。
さて、主イエスがカファルナウムにおられる時、大勢の人々が集まり、家の戸口まで人々でいっぱいになり、隙間もないほどになりました。
主イエスはそこで御言葉を語っておられました。御国の福音を伝えたのです。
カファルナウムは、ガリラヤ湖の北西岸にある町で、主イエスの公生涯における宣教の本拠地となった町です。ですから、マタイによる福音書の平行記事には、カファルナウムのことを「自分の町に帰って来られた」(マタイ9:1)と、記しています。
ちなみに今年の教会カレンダーには、昨年に続きカファルナウムの風景が使われています。
主イエスが御言葉を語っていると、四人の男の人が中風の人を運んで来ました。しかし、あまりにも人が多く集まり、入り口から病人を運び入れることはできませんでした。病人は床に寝たまま連れて来られましたから余計に入り込むことはできませんでした。
そこで、4人はイエスがおられる当たりの家の屋根をはがして穴をあけて、病人の床をつり下ろしました。中風の人は、体が不自由で歩くことはできず、自分では主イエスの許に来ることができませんでした。
4人の男の人たちと病人がどのような関係にあったのかはわかりません。友人か、家族か、とにかく病人を思いやる人々であったことは確かです。彼らはなんとかして主イエスの所に病人を連れて行きたいと必死に願いました。
そのような強い思いが、屋根をはがして穴をあけるという行為になりました。
このカファルナウムの家は、ペトロの家とも言われていますから、ペトロの家は屋根がはがされてしまったわけです。
主イエスは四人の信仰を見て、病人に「子よ、」と呼びかけられ、「あなたの罪は赦される」(マルコ2:5)と宣言されました。
これは、「あなたの罪は赦され、取りのけられ、神の前に正しい者とされた」という御言葉です。
主イエスの罪の赦しの宣言は完全な宣言です。
しかし、この御言葉を聞いた病人と4人は驚いたのではないでしょうか。なぜなら、主イエスの許に来て病気を癒していただきたいと、強く願っていたからです。「あなたの病は癒された」という言葉をいただいて、帰りたかったに違いありません。しかし、主イエスは罪の赦しの宣言をなさいました。
この出来事から、主イエスと律法学者との軋轢が始まりました。
この場所に、数人の律法学者がいて、罪の赦しを与えられるのは神お一人であって、イエスは神を冒涜していると心の中であれこれと考えました。主イエスは律法学者たちの、口には出さなかったこれらの考えをご自分の霊の力で見抜かれました。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人にあなたの罪は赦されると言うのと、起きて床を担いで歩けと言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。(マルコ2:8−10)と言われて、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(マルコ2:11)と、宣言されました。
病人は主イエスの言われた通り、自分が寝かされていた床を担いで皆の見ている前を出て、家に帰ったのです。人々は驚きと共に神を賛美しました。
この出来事を通して、主イエスこそメシア、救い主、人の罪を赦す権威をお持ちの神であることを知ることができます。
罪の赦しと、病の癒しをなさるお方です。
主イエスは、中風の人を主イエスの許につり下ろした4人の信仰を見てくださいました。
その信仰は、必ず主は癒して下さるという信仰でした。
その姿から私たちは、執り成すとはどのようなことなのかを知ることができます。彼らは人目を気にすることなく、今、自分たちに出来ることをしました。
コロナ禍の中で苦しむ人が大勢います。また、様々な問題や試練の中にいる人々もいます。病気のために苦しむ人々もいます。
私たちは、弱さをかかえる人々に目を向けたいのです。その第一歩は、祈ることです。
今、コロナ禍の中で、ロシア対ウクライナの戦いが始まり、核が使用されるかもしれないという、大きな懸念が毎日報道されています。
個人的なことにも、大きな世界情勢の為にも、私たちは、祈りの手を上げることができるのです。
執り成しは祈りに始まります。
祈り続けていると、次第に道が開かれて、具体的な方法が示されます。
自分の肉の思いだけでは進みません。主の導きを求めて祈り続けるなら、必ず導きかれ、用いられるでしょう。
主イエスは先に罪の赦しの宣言をなさいました。
主イエスは、全世界の罪の赦しのために十字架に架ってくださいました。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです」(Tペトロ2:22−25)。
主イエスがお受けになった十字架の傷は私たちの罪を赦し、神の前に義とするためでした。真の神から遠く離れ、彷徨う者を神の許に戻してくださいました。
もし、この中風の人が病気の癒しだけで帰ったとしたら、主イエスとの結びつきはなかったのです。。癒しの体験は素晴らしいものですが、それで終わってしまいます。
本当に大切な癒しは、病の癒しだけではなく、魂の救いであり、癒しです。
主イエスの十字架は、私たちが罪に対して死に、義によって、新しい命に生きるためでした。神の子として永遠の命に生きるためなのです。
罪の赦しは人の魂の中に起こることで、人には見えません。ただ、その後の変化でそれは分るのです。生活と思いがキリスト中心に変えられ、賛美に生きるからです
その救いが目に見えるように、主は中風の人を癒されました。主イエスに出会う多くの人がそうであるように、この人もこの瞬間から救われたのです。4人の男の人たちも、この場にいる大勢の人たちも主イエスを信じて、新しい命に満たされました。
福音にふさわしく生きる者でありたいと思います。その第一歩は祈りです。魂が救われるための執り成しです。信じて祈りましょう。
そして、具体的な方法を求め、聖霊に導かれて実際的な執り成しに動くとき、そこに救い主による救いと癒しを見るでしょう。

今週のみことば
「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し、 命を墓から贖い出してくださる。」詩編103編3-4節


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