阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年3月13日
「しっかり立って固く守る」
Uテサロニケの信徒への手紙2章13-17節

 本日の礼拝もYouTube礼拝ですが、所は離れていても御霊により、一つとされ、神を崇め賛美し礼拝をささげましょう。
兵庫県の蔓延防止等重点措置は、3月21日まで延長されました。
21日に解除されれば、3月27日(日)から教会に集まり、聖日礼拝をささげ、SSを再開したいと思います。祈り備えましょう。
万一、延長されることになれば、もうしばらくYouTubeで礼拝をささげましょう。
主は何事にも最善を備えて下さる方ですから、主に期待し待ち望み、自ら備えましょう。兄姉になかなかお会いすることができませんが、お互いを覚え、祈り合いましょう。
今日はUテサロニケ2章13節以下の御言葉から、御心を探りたいと思います。
13節では信徒たちに、「主に愛されている兄弟たち」と呼びかけ、「救われるべきものの初穂」としてお選びになったとあります。
私たち一人一人も、「主に愛されている者」です。神の独り子が十字架に架けられて表された、神の愛によって愛されている者です。
私たちは、神の愛を確信して歩んでいるか、省みることは大切なことです。
自分の罪の為に身代わりとなって死んでくれる人があるだろうか。
そのような人はまずいません。
しかし、キリストは罪を背負い、死なれて愛を表したのです。十字架の愛です。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6−8)
神の無償の愛はキリストの十字架によって表されました。私たちは神の愛で満たされている者です。
「初穂」とは、文字通り初めて実った作物という意味があります。
聖書は、宣教地で初めて救われてクリスチャンになった人々を、「初穂」と表現しています。
テサロニケは、現在もギリシャ第二の都市です。パウロのマケドニア宣教によって、信じる者の群れが起こされました。
パウロがマケドニアで最初に宣教をしたのはフィリピでした。ですからマケドニアの最初のクリスチャンを初穂というなら、フィリピの信者が初穂となります。しかし、テサロニケの信者たちにも初穂と言っていることを考えると、もう少し広い意味で、初穂という言葉が使われていて、神にささげられるために選び分かたれた者という意味と考えられます。
そして、福音を通して、主イエスの栄光にあずからせるために招いたのだと、説明しています。この御言葉のように、主イエスのすばらしい栄光にあずかる為、すべてのキリスト者は神に召されました。
神の招きはどのようになされるのでしょうか。福音を通してと、14節にあります。聖霊に満たされて福音を伝えると、聞く者の内にも聖霊が働かれて、キリストを信じるという、御業が現れます。
聖霊は、福音を伝えさせ、聞く人が福音を信じるように、働いて下さるのです。
15節には、「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」(Uテサロニケ2:15)と、励ましの御言葉が記されています。
あなた方は主に愛され、聖くされ、初穂として召されたのだから、しっかり立つようにとあるのです。
しっかりとどこに立つのでしょうか。キリストを土台とし、信仰によって立ちます。
信仰は神の言葉を聞くことから始まります。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)とあります。
イエス・キリストと、その御言葉なしの信仰はあり得ません。神に招かれた者は、信仰によって歩みます。
主イエスは山上の説教の終わりに、賢い人と、愚かな人のたとえをお話になりました。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:24−27)
皆、良く知っているたとえ話です。
主イエスは神の言葉をお語りになりましたが、それを聞いて、実際に御言葉によって生活しなければ、試練が襲うとき、激しく倒されてしまうと警告されました。
しかし、御言葉によって生きる者は、キリスト、岩の上に建つ者であり、どのような嵐が襲っても、決して倒れることはないのです。
「わたしたちが説教や手紙で伝えた教え」(Uテサロニケ2:15)とは、キリストの言葉そのものなのです。
キリストという岩を信仰の土台としてしっかり立ち、その御言葉を固く守り続けることが、救われた者、神に愛されている者、光の子の歩み方です。
ヤコブの手紙は、神の言葉を行う人になる様にと勧めています。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、
これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブ1:22−25)。
ヤコブの手紙は律法的だと言う人もいるのですが、決してそうではありません。信仰と生活(行い)は、切り離せないものだと教えているのです。
救われるためには何もする必要はありません。主イエスの十字架でだれでも完全に罪が許され、永遠の命をいただけます。
主の十字架により、罪許され救われた者は、祈りつつその信仰によって主の御言葉に従って生きるのです。
生活は生活、信仰は信仰と別々ではありません。主の御言葉によって生きるのです。
私たちの天の父はどのようなお方でしょうか。「私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる」(Uテサロニケ2:16)お方です。
永遠の慰め、確かな希望を恵みによって与えてくださいます。
御国の慰めと希望です。永遠の命の慰めと希望です。
日々の生活の中で、苦しみや悲しみ、呻くような体験をすることがあります。
しかし、私たちには、この祈りの御言葉が与えられています。
「どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」(Uテサロニケ2:17)
父なる神の励ましがある。心を強くしていただける。そして、信仰によって善き業に励むことができるのです。
私たち心の思いと口の言葉、生活が主に喜ばれることを確信し、主イエスという土台、希望の上にしっかりと立ち、御言葉を固く守る者とされ、主イエスを見上げて進みましょう。
「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」(詩編19:15)
アーメン

今週のみことば
「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し・・・」
イザヤ書43章4節


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