阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年4月3日
「明日のことまで」
マタイによる福音書6章31-34節

 4月第一週の日曜日を迎えました。礼拝をささげられる恵みを感謝します。4月は新しい歩みを始める月です。新しい環境の中に歩み出した兄姉もおられると思います。
4月17日は、主イエスが復活されたことを記念するイースターです。
心を備えて復活をお祝いしたいと思います。

私たちはこの世に生を受け、今日まで導かれてきました。幸いなことに主イエスとの出会いがあり、その十字架による贖いを受け、救いを受け入れることができました。
永遠の命をいただき、祝福の中を歩む者とされました。これ以上の感謝はありません。
しかし、それでも人は心に不安や悩みを持ちます。ですから、たびたび御言葉に聞かなくてはなりません。主イエスは何と教えておられるか、確認するのです。今日のテキストも、山上の教えの中でお語りになっている御言葉です。
大群衆が主イエスの許に来て、その教えに耳を傾けました。その人々の大半は、貧しく、あるいは病人であり、明日の希望がなく心の平安を求める人々でした。
その人々に、主イエスは自分の命、体の事で思い悩むなと教えられました。日々の糧や衣服の事を心配するなと言われています。
命も体も、食べ物や衣服よりも大切であり、生活するための必要は、天の父が与えてくださるとお語りになりました。
それらの事を、空の鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもしないと誰でもわかるようにお話しなさいました。
この鳥のことを、ルカによる福音書の平行記事では、烏(からす)と記しています。
美しく立派な価値のある鳥ではなく、烏(からす)と言われました。
マタイ10章29節以下には、二羽の雀は1アサリオンで売られているが、天の父の許しがなければ、その一羽さえ地に落ちないとあります。   1アサリオンとは、当時の労働者の一日分の給料の16分の1です。
二羽300円くらいかもしれません。そうすると一羽は150円です。現在の私たちが買う缶ジュース一本分の値段でしょうか。
烏(からす)や雀のような小さな存在さえ覚えていてくださる天の父は、はるかに優れた存在であるあなたには、それ以上に良くしてくださるのだという主イエスの教えです。
心配しても、思い悩んでもだれも自分の寿命を延ばすことはできません。
着るものがないと、衣服の事で心配することもいらないと。主イエスは教えておられます。
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6:28−32)。
衣食とは、人がこの世で生きていくうえで欠かすことができないものすべてを指しています。
主イエスは、雀が働かないで養われているように、働かなくてよい、野の花のように咲いていればよいと、そのように教えられたのではありません。生活上の全てのことで、欠乏を怖れて思い煩うなと、教えておられるのです。
テサロニケの信徒への手紙Tには、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(Tテサロニケ4:11)とあり、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」(Uテサロニケ3:12)とも勧められています。
仕事を得ている人はそこでしっかり働き、家庭にいる人も与えられている分をしっかり果たすことを教えているのです。
世の必要のために悩むのは「異邦人」であり、異邦人はそれらを切に求めるともあります。異邦人とは、まことの神を知らず、信じることもない人々を指しています。
主イエスは十字架で世の罪を贖い、信じる者に永遠の命を与えてくださいました。救われた者は永遠の望みを持ち、日々歩むことができます。
それでも思い煩いがぬぐい切れない時はどうしたらよいのでしょうか。救われた者にもさまざまな問題があります。
苦しむ時こそ、救い主と向き合う時です。
思い煩うのは、天の父よりも自分の力に頼っているということに気が付きます。
詩編を読むと、作者は苦難や悩みの中でたびたび主を呼んでいます。
「わたしの胸が思い煩いに占められたとき あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました」(詩編94:19)と歌われています。
思い煩いは、私たちの心を占領してしまうことがあります。しかし、その時こそ、心を主に明け渡す時なのです。思い煩いではなく、聖い御霊に占領していただく時です。
聖霊は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の実を結びます。実とは内側にあるものが表面に出て、キリストの品性に生かされることです。
ただ、キリストを仰ぎ、自分の生まれながらの性質、弱さは、キリストと共に十字架に架けられたこと、主が死んで甦られたように、私たちも罪に死に、新しい命に生まれた者であることを改めて確信し、受け入れることです。
主が下さる平安と慰めを体験するのです。主イエスは希望と力に満たしてくださいます。
キリスト者は、日々キリストご自身を体験するのです。
天の父は、私たちの必要すべてを知っておられることを感謝します。
キリスト者はまず何を求めるのでしょうか。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)とあります。
神の国とは、神のご支配の事です。私たちは救われた時、神の国の民とされました。神の義は、神の目から見て正しいことを現わします。御心を求め続けて、御心を生きることです。
自分中心ではなく、キリスト中心に生きることです。
そのように生活するなら、天の父は生活すべての必要を満たしてくださると約束されます。私たちは信仰によって信じます。
そのような生活のすべてが証しです。
そして、主イエスは、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と教えてくださいました。
今日、しっかり主に従い、御心を生きていくことを心に留めましょう。
注意深く御心を探りましょう。今日祈り、主と交わることです。
明日の必要を心配することはありません。明日、与えられるからです。
出エジプトした後、イスラエルの荒野の旅で、神は毎日その日のマナを与えてくださいました。一日分です。安息日の分だけは、前日に二日分与えられたのですが、安息日の分を除いて、普通の日のマナを翌日まで取っておいてはいけませんでした。 
明日ないと困ると思ってマナを残しておいても、臭くなって食べられなかったのです。
思い煩う必要はなく、マナは毎日イスラエルの旅が終わるまで与えられました。40年間マナを与えられ、約束の地に入るまで養われました。
「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)。まさに私たちの神は奇跡の神です。
明日の歩みは天の父が守り、備えて下さいます。私たちはこの方を信じて従うだけです。試練があっても怖れる必要はありません。
信仰を持って、今日一日の務めをしっかりと果たしましょう。


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