阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年4月10日
第2聖日受難週礼拝メッセージ

「その打たれた傷によって」
Tペトロの手紙2章22-25節

 きょうも共に集まり、礼拝出来る恵みを感謝します。
今年のイースターは、4月17日です。
今日から受難週が始まります。キリストが私たちの罪を贖うために十字架の道を歩まれ、死んでくださったこと、三日目に甦られたことを深く心に覚えて過ごしたいと思います。
主イエスは、すべての人の為にこの世に来られて、十字架に架ってくださいました。なぜ、そのようなことができたのでしょうか。それは、これ以上ないほどの神の愛によります。神の愛が表されました。
天の父は、罪人を愛され、救いの道を示されました。神の独り子をこの世に遣わし、世の贖いとして十字架に架けるというご計画でした。
人は、罪というと、犯罪の事と思います。心に悪い思いがあっても、それを表面に出さなければ問題はないと考えます。
しかし、神が問題にされるのは人の心にある罪です。隠されている罪です。
真の神から離れて、失われていることが罪であり、自己中心こそが罪なのです。
犯罪は裁判を受けて判決が下され、収監されて満期になれば出獄します。それで、犯罪の刑罰は終わったのですが、心の中の罪は、解決しません。罪を告白し、キリストを心に受け入れる時、罪と死の解決を得ることができます。
人は神から離れ、羊のように彷徨っていたのですが、キリストによって、神に立ち帰る道が開かれました。主イエスはご自分の事を道、真理、命をと紹介されました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)
主イエスだけが天の父に至る道であり、真理であり、命なのです。
私たちはかつて、自分が迷子だったことを知っていたでしょうか。「羊のようにさまよっていましたが」(Tペトロ2:25)とあります。
羊は羊飼いがいないと生きていけない動物です。主イエスは羊のたとえでたびたび教えておられます。
主イエスは、迷い出た羊のたとえをお話になりました。
「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
(マタイ18:10−14)
主イエスは、良い羊飼いです。迷い出た羊を捜し歩き、見つけてくださいました。
迷い出た羊とは、かつての私たち一人一人の事です。
百匹の内の九十九匹がいたら、それで良しとはなさいません。迷い出た一匹の為に九十九匹を置いておいても、羊飼いは捜し歩くのです。
羊が見つかったときの喜びは天で大きいのです。大きな喜びの声があがります。
私たちが羊飼いである主によって見いだされた時にも、天に大きな喜びがあったことを覚えたいと思います。
天の父の御心は、すべての者が主イエスを信じて救われることです。 救い主はどのようなお方でしょうか。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(Tペトロ2:22)とあり、イザヤ53章の御言葉が引用されています。
キリストは罪のないお方であるからこそ、人の罪の贖いを成し遂げられたのです。
主イエスが大祭司の庭で裁かれた時、神を冒涜したと決めつけられ、顔に唾を吐きかけられ、こぶしで殴られ、また平手打ちをされながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか、言い当ててみろ」などと、侮辱をうけました。
主イエスは、ユダヤの総督ピラトの前に引き出されて、訴えられても何もお答えになりませんでした。
主イエスは罪がないにもかかわらず、死刑の判決を受け、総督の官邸でローマの兵士たちにも侮辱されました。
兵士たちは、イエスの衣を剥ぎ取り、赤い外套を着せ、茨の冠をかぶせて、右手に葦の棒を持たせました。ひざまずき、「ユダヤの王様万歳」と言って侮辱し、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げ、頭をたたき続けました。そして、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるため引いていきました。
主イエスはそのようにされても口を開きませんでした。黙って十字架の道を進まれました。
旧約時代、罪の許しの為には動物の犠牲が必要でした。しかし、動物をささげても、罪の許しは完全ではありません。
「すべての祭司は、毎日礼拝をささげるために立ち、決して罪を取り除くことのできない同じいけにえを、繰り返してささげます」
(ヘブライ10:11)
祭司が律法の規定にある動物を、繰り返しささげても罪の許しはありませんでした。
しかし、キリストはたった一度、ご自分を十字架でささげて、完全な罪の贖いを成し遂げてくださいました
「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、ご自身を献げることによって、成し遂げられたからです。(ヘブライ7:26−27)。
このキリストを信じる者はだれでも、罪を完全に赦され、神の子とされ永遠の命に生かされます。
迷い続け、滅びに向かっていた者が、キリストに見いだされ、罪を赦され、永遠の命に生かされたのです。
私たちの罪は、キリストの十字架に釘付けられました。罪に対して死に、キリストの命に生かされたのです。
これは、主の十字架の贖いによるのです。
「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(Tペトロ2:24)と教えています。
古い自分はキリストと共に死に、神の義、神の正しさ、御心に生きる者とされました。
キリストの十字架の痛みは、私たち一人一人の為でした。神の愛のこれ以上ない表われです。
「そのお受けになった傷によってあなたがたはいやされました。
(Tペトロ2:24)
主イエスの痛みによって私たちは救われ、いやされたのです。
それほどまでに天の父は私たちを愛してくださいました。独り子を十字架に架けても良いと思われ、実際にそれを実行されたほどに、罪ある者を愛されました。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:10)
私たちが真の神を知らず、罪の中を彷徨っていた時、神は私たちを愛して御子を下さいました。
神の愛を知り、受け入れる人は幸いです。キリストの十字架の贖いにより罪許され、恵みの中に生きる人は幸いです。
まことの牧者、良い羊飼いである主イエスに日々導かれる人は幸いです。またこの方は私たちの「監督者」です。監督者とは守護者であり、いつでもどのような時にも守ってくださるお方なのです。
主イエスが十字架に向かわれた受難週に、もう一度十字架の意味と、主の身代わりの死によって、私たちが罪許され、癒されたことを確信しましょう。
神に愛され、赦され救われた者は、賛美しつつ歩み、神を礼拝し、神の愛によって、神と人を愛する者とされたことを心より感謝しましょう。


今週のみことば
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、
 十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。
 その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」
Tペトロの手紙2章24節



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