阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年4月17日
イースター礼拝
「希望に生きる」
ルカによる福音書24章1-11節

 イースターの日曜日に、主の復活を記念し、礼拝をささげられることを心から感謝します。
 主イエスは、すべての人の罪の贖いの為に十字架に架り、死んでくださいました。そして、三日目に甦られました。
私たちはその信仰を繰り返し告白しています。
使徒信条では「我らはその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」と、御子に関する告白が一番長くなされます。
キリストの教会は、主イエスが復活された日曜日を記念して、日曜日に集まり、礼拝をささげるようになりました。
私たちが毎日曜日に集い、礼拝するのは、主イエスの復活の証しなのです。
金曜日に十字架に架けられた主イエスは、息を引き取られ、遺体はアリマタヤのヨセフによって引き取られて、新しい墓に納められました。
金曜日の夕方から安息日が始まるので、遺体を亜麻布に包み、仮埋葬したのです。
主イエスに従って来た婦人たちは、アリマタヤのヨセフの後について行き、お墓の場所を見届けました。
安息日が終わったら、本格的に埋葬するために、香料や香油の準備をしました。
婦人たちは日曜日の明け方早く、埋葬に使う香料などを持って、主イエスの墓に行きました。お墓には大きな石が置いてあり、封印されていたはずなのに、石はすでにどけられていました。
お墓の中に、主イエスの遺体はありませんでした。
途方に暮れていると、天使たちが遣わされ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」(ルカ24:5−7)と言われたお言葉を、思い出すよう教えました。
婦人たちはイエスのお言葉を思い出しました。墓から帰り、弟子たちにこの一部始終を伝えました。
ところが弟子たちは、婦人たちがばかげたことを言っていると、信じようとはしませんでした。
一人が報告したのではなく、複数の婦人たちが伝えたのに、信じなかったのです。ルカによる福音書には婦人たちの名が挙げられています。
「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであったとあります。
ペトロだけは墓へ走って行き、中をのぞくと亜麻布しかなかったので、驚きながら帰ったのです。
私たち信仰の中心と基本は、主イエスが私たち一人一人の罪の贖いとして十字架で死んでくださったこと、墓に葬られて三日目に甦ったことを信じることです。復活の信仰です。今生きておられるイエス・キリストを信じる信仰です
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(Tコリント15:3、4)と最も重要なこととして教えられています。
イースターは、キリストが墓の中から復活されたことを記念し、祝い、主が復活されたことにより、私たちも復活を信じ、それを確信する日です。自分自身の信仰を確認し、確信する日です。
神はこの世、すなわち私たち一人一人をこよなく愛されました。罪の身代わりとしてその独り子を十字架に架けたのです。
私たちは、キリストの打たれた傷によって救われ、癒され永遠の命をいただくことができました。
何が罪なのかも知らず、罪人であることもわからず、自分の道を彷徨っていた者を、主は十字架で贖い、御自分の命に生かしてくださいました。
主イエスの十字架の死と復活を信じる者は誰でも救われ、主イエスに導かれ続けます。
 人が自分で解決できないことはいろいろありますが、最大の事はこの世の生を終える、死をむかえるということではないでしょうか。
主イエスは、「あなたがたのうちだれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)と言われました。
命を与えてくださったのは、天の父です。この世に自分で生まれてきた人はだれもいません。天の父の御計画であり、私たちには神秘です。ですから命は尊いのです。
また、この世の命を終えることも、神に主権があります。
現代は医学が進み、寿命はたしかに延びました。しかし、だれでも死を迎えます。
やがて、いつかこの世の旅が終わり、体は無くなるでしょう。しかし、主イエスを信じた者は、信じた時から主イエスの命に繋がれた者です。
キリストの教会は、キリストを頭として、キリストの命にあずかった者の共同体です。
私たちは救われた時から御国の民であり、この世を去ってからも御国の民なのです。キリストがお召しになったので、天に移され、キリストの許に憩うのです。
私たちが天に移された時、ここが本当の自分の住まいであることを知るでしょう。
主イエスに選ばれ、主に従った弟子たちに、主イエスは何度も十字架の苦難と復活を話されました。しかし、弟子たちは信じることができませんでした。ペトロは、わざわざ主をわきへお連れして、諫めました。そんなことがあってはならないと思ったのです。
主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と激しく叱責されました。
弟子たちは、主イエスは復活されて、墓にはおられないと報告した婦人たちの話もばかげたことを言っていると信じなかったのです。
人は自分が知っていること、あるいは体験してきたことを信じています。しかし、知らない事や、あり得ないと思っていることは信じないのです。
復活の日の夕刻、弟子たちの所に復活の主がおいでになったのに、弟子のひとりトマスは、自分が主にお会いしていないので、主を見るまで、その傷跡に手をいれて確かめるまで決して信じないと言い切りました。
人とは、これほどまでにかたくなな心を持っています。
私たちは悔い改めて、復活を望み、主が再び来られることを確信しながら歩む者です。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。私たちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Tコリント15:54−56)。
死に打ち勝った主イエスを高らかにほめたたえています。
与えられた命を大切にし、一日一日を感謝し、」十字架に架られ死んで甦られてた主を仰ぎ見、この世の歩みを続けて参りましょう。
人が信じられないようなこと、主イエスの十字架の死と復活を私たちは信じ、受け入れました。福音です。
この福音を伝えられるのは、キリスト者以外にはいません。
人は福音を聞いたとき、そんなことがあるはずがないと思うでしょう。
しかし、心の奥底では救われたいとう願いが隠されているはずです。
私たちが信じて救われたように、福音を伝えられた人は信じることができます。聖霊のお働きによります。
復活の希望に生き、復活の希望を大胆に伝えていきましょう。


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