阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年5月1日
「心燃やされて」
ルカによる福音書24章25-35節

 主イエスが復活された日曜日、二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていました。
二人は主イエスに関する出来事全てを話し合いながら、歩いていました。「話し合い論じ合っていた」とあります。
主イエスの逮捕、十字架の死、そして復活について、自分たちの理解をはるかに超えたことが起こったと、話し合っていたのです。
そこへ主イエスが近づいてきて、彼らの間に入り、歩き始められました。しかし、彼らの目がさえぎられていたので、その人が復活された主イエスだとは分かりませんでした。
 主イエスは、あなたたちが歩きながら大きな声で論じ合っているのは何のことかと聞いて下さいました。すると、二人は暗い顔をして立ち止まりました。
弟子の一人はクレオパという名前でした。彼は、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」(ルカ24:18)と聞き返しました。
エルサレム中の人が主イエスの十字架の死と、復活されたということを知っているはずと思ったのです。
主イエスは「どんなことですか」と聞き返されました。
弟子たちは主イエスと、十字架の出来事、また、復活について話しました。
この二人の弟子たちは主イエスをどのような方と思っていたのでしょうか。
主イエスは、行いにも言葉にも力のある預言者だったと証言しました。確かに主イエスは神から遣わされ、神の言葉を人々に伝えるという働きについては、預言者の働きをなさいました。
しかし、主イエスは、メシア、キリストです。
全世界の罪の贖いとして世に遣わされた神の御子、キリストです。
この方だけが、信じる者を罪から贖い、救いを与えることがお出来になるのです。
さらに、この弟子たちは主イエスが「イスラエルの解放者」であると望みをかけていたと話しました。ローマ帝国の圧政から国を救う方だと信じていたのです。二人だけではなくほかの弟子たちも、またエルサレムの人々もそう思っていました。
ところが、大祭司や律法学者、ファリサイ派の人々によって逮捕され、十字架に架けられ、死んで葬られたのです。
しかし、主イエスの墓に行った婦人たちは、天使によって、主イエスの復活を告げられました。弟子たち数人が墓に行きましたが、墓には主イエスはおられませんでした。。
これが一連の出来事と、二人は語りました。
主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24:25、26)といわれ、旧約聖書の御言葉を語られて、御自分の受難、復活について説明されました。
特にイザヤ書53章は受難のメシアについての預言として有名です。
主はこのイザヤ書からもお教えになったに違いありません。
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:4,5)
主イエスは、弟子たちに十字架以前に3度、受難と死と復活を予告なさいましたが、弟子たちは理解できずにいました。
主イエスと弟子たちはやがてエマオに近づきましたが、主イエスはなおも先に進もうとされるので、二人の弟子は一緒にお泊り下さいと無理にお願いしました。もう日暮れであり、一日が終わろうとしていたのです。主イエスは一緒に宿に入られました。
食事の席で賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡された時、二人の目が開かれて主イエスだとわかりました。
すぐに主のお姿は見えなくなったのですが、二人はすぐさまエルサレムに取って返しました。
エマオは、エルサレムから60スタディオンの距離と説明がありますから、おおよそ11キロメートルくらい離れた村でした。もはや夜になり、歩くには向かない時刻でも、二人はそうせずにはいられませんでした。
二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と話し合い、すぐに出発しました。
エルサレムでは11弟子が、復活の主がペトロに会われたと言い、二人も道で起こったこと、パンを裂く様子で主イエスであることが分かったことを話しました。
二人の弟子たちは、エルサレムからエマオに向かう時と、心が全く変わりました。
意気消沈し、主イエスに期待していたことはすべて失い、日没に向かって暗い思いで歩み、エマオに引きこもるつもりでした。
主イエスは、この二人に、「物分かりが悪く、心が鈍く」と嘆かれたのですが、決してこの二人の弟子を責められたのではありません。
御言葉を聞いたら、真剣に受け止め、祈りながら理解し、信じて待ち望むという信仰の姿勢を教えられたのです。
このような御言葉に対する姿勢は、私たちも襟を正して守る必要があります。聞くには聞くが悟らずでは、主はお嘆きになります。
主イエスは私たちにも歩み寄ってくださり、親しく交わり、御言葉を与えてくださいます。
御言葉には命があり、私たちの魂を養い育ててくださいます。ペトロは御言葉を「混じりけのない霊の乳」と表現しました。この霊の乳によって私たちの信仰は成長していきます。
私たちの魂が生き暮れてうなだれる時、主イエスは近くにいてくださり、その御手を差し出してくださいます。
「わたしの胸が思い煩いに占められたとき あなたの慰めがわたしの魂の楽しみとなりました。」(詩編94:19)。
どのように主は慰めてくださるのでしょうか。真理の御言葉によって慰めてくださいます。御言葉を信じる時、私たちの心は燃やされます。聖霊が私たちの心を満たしてくださいます。
信仰による勇気と希望をもって歩み始めるのです。
主イエスを信じ、御言葉を信じ従う者には、失望も絶望もありません。
弟子たちは主を失ったという失望のどん底にいました。しかし、主イエスは復活されました。失望することはなかったのです。道が閉ざされたと思っても、最善の道に導かれます。
私たちを愛して十字架に架り、死んで復活された主イエスは、いつも私たちと共に歩まれます。
御言葉をもって常に導き養い育ててくださいます。
私たちの内におられる御霊は、真理の御霊です。御言葉を悟らせ、力を与えて、ますます主イエスと共にある喜びに満たされるのです。
イエス・キリスト、このお方に常に導かれ、御言葉に心燃やされ、喜びをもって、復活されたキリストを語りましょう。

今週のみことば
「人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
マタイによる福音書4章4節


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