阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年5月29日
「十字架の愛」
ローマの信徒への手紙5章6-8節

 主を崇め賛美し、礼拝をささげられて心より感謝します。
一週間も守られて、主の日に教会に集まり礼拝をささげられることは私たちの最大の喜びです。
また、私たちは神の言葉によって生かされています。今日も心の耳と目を開き、御言葉を待ち望みましょう。
人にとって一番つらいことは自分がたった一人きりであり、孤独だということではないでしょうか。
たとえ、周囲に人がいて、決して一人ではなくても、理解が得られないと感じ、疎外されていると思うなら、心が苦しくなります。
人には愛され、受け入れられ、認められたいという心があるからです。
主イエスを信じる以前には、そのような思いの中に生きていたことも思い当たるかもしれません。
しかし、主イエスを救い主と信じた時から、心に真の光が与えられ、いつも主が共にいて下さるという恵みにあずかりました。
天の父はこの世を愛し、その独り子であるイエス・キリストをお遣わしになりました。
キリストは、神であられるのに、人の子としてこの世にお生まれ下さいました。それは、全人類の救いの為でした。
エデンの園でアダムとエバが神に背いたときから、人に罪と死が入りました。
神の言葉に従わなかったということは、神を信じていないということになります。
アダムとエバは、エデンで神と共にあり、自由でした。
神が人に命じたのは、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という、たった一つのことでした。
サタンの誘惑に負けて、その一つを守ることができませんでした。木の実を取って食べたのです。
この時から人に罪が入り、この世に死が入り込みました。
神との断絶が続きました。
神は、救いのご計画を持っておられました。神と断絶し、滅びに向かう者を救うご計画です。
それは、神の独り子イエス・キリストを世に遣わし、十字架で世の贖いとなるというご計画でした。
主イエスは神であるのに、ヘリくだり、十字架の死に至るまで従順に神の御計画に従いました。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:6−8)。
わたしたちが罪に苦しみながらも、解決の方法を知らずにいた時、救い主は十字架に架ってくださいました。
人が人の為に身代わりとなって命を捨てることができるでしょうか。
正直に生き、人に対して惜しみなく力を注ぐような人のためには、命を捨てる人があるかもしれませんが。それは特別なことでしょう。
しかし、神は罪人を救うために、キリストを十字架におかけになりました。
それは、計り知れない神の愛の表れです。
人が救われる理由は、神がこの世を愛し、私たちを愛しているからです。
神に逆らい、信じようともしない一人一人を愛して、キリストを下さいました。
主イエスはゲッセマネの園で逮捕され、大祭司の庭で裁かれ、総督ピラトの許に送られ、そして、ヘロデの許まで引き出されました。
ピラトは主イエスに罪を認められず、釈放したかったのですが、群衆の勢いに押されて、十字架刑に処する判決を下しました。
主は、侮辱され、叩かれ、唾をかけられ、嘲られても口を開きませんでした。黙って十字架の道を歩まれました。
ゴルゴタへ続く悲しみの道で、キレネ人のシモンという人が、無理やり十字架を担がされました。
まるでシモンが十字架に架けられる人に見えたことでしょう。
シモンにとっては迷惑な出来事であっても、後には主の十字架を担ったという事実に、不思議な感動と感謝を抱いたに違いありません。
主イエスの十字架の右左には、犯罪人が十字架に架けられていました。
そのうちの一人は、「我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)と語り掛けました。イエスは、「はっきりいっておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)とお答えになりました。
どのような者であっても、悔い改める者を主イエスは拒まれずに救われるのです。
十字架刑は、ローマの市民権を持つ者には適用されず、奴隷や身分の低い者に対してなされた刑罰でした。神の子である主イエスが受けるものではなかったのです。しかし、主はだまって十字架に架ってくださいました。世を贖うためです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6−8)
僕のかたちをとられて十字架に架られたのです。
主イエスは、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。
神の愛は十字架で表されました。愛と赦しの十字架です。希望と永遠の命の十字架です。
私たちは神に愛されている者です。
この世において、生き辛いと思うような時、孤独感にさいなまれるような時、病気に悩むとき、ありとあらゆる時に、神の愛を覚えることができます。
物事全て順風満帆の時、あるいは逆風に悩むとき、どのような時も神の愛は注がれ続けています。
神の愛に満たされ続け、愛によって働く信仰に生きる者でありましょう。
魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇をあたえる父親はいません。
卵を欲しがるのに、さそりを与える父親もいません。罪人であっても、自分の子供には良い物を与えようとするのです。
まして、天の父は求める者に良い物を下さらないはずがありません。
良い物、聖霊を下さり、愛を注ぎ続けてくださり、満たしてくださいます。
この素晴らしい天の父を「アバ、父」と呼び、近づけることは最高の喜びです。
神の愛に満たされ、喜びに満たされ、互いに愛し合い、この救いが全世界に及びます様にと祈り続け、神の愛を伝え、働きかけて参りましょう。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Tヨハネ4:10)

今週のみことば
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、
 神もその人の内にとどまってくださいます。」
 Tヨハネの手紙4章16節


 ページのトップへ
  
2022年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ