阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年6月12日
「喜びに溢れて」
使徒言行録8章32-40節

 今日も教会に集まり、真の神を礼拝できることを感謝します。
心を合わせて、神を賛美し礼拝しましょう。
神を崇め、御言葉を待ち望みましょう。

ペンテコステの日に約束の聖霊が降り、弟子たちは御霊に満たされました。
その日、悔い改めた人々が3000人ありました。教会が誕生し、その群れは礼拝、交わり、祈りに熱心でした。
神殿に詣で、家々では集まってパンを裂き、礼拝をささげ、賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられました。救われる者が日々起こされたのです。
ところが、ペトロやヨハネが捕らえられて議会で尋問されたり、投獄されたり、ステファノの逮捕と殉教という出来事が起こりました。
ステファノの殉教をきっかけに、教会に対して大迫害が起こりました。
使徒たちのほかは、他の地方、ユダヤやサマリアの地方に散らされて行きました。散らされて行った人々は、行く先々で福音を伝えました。
迫害をきっかけに福音は拡大していきました。
フィリポは、エルサレム教会の7人の執事の一人でした。
執事には、殉教したステファノも選ばれていました。「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と、あります。他の執事も同じ理由で選ばれたのです。
フィリポはまずサマリアで伝道しました。多くの人々が主イエスを信じサマリアにリバイバルが起こりました。
そのニュースを聞いて、エルサレムから使徒ペトロとヨハネが遣わされて、人々に手を置くと、聖霊が注がれました。サマリアのリバイバルです。
迫害は宣教拡大につながりました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と言われた主イエスのお言葉が成就し始めたのです。
フィリポは、「南に向かい、エルサレムからガザへ下る道へ行け」という、御使いの命令に従いました。フィリポは直ちに向かいました。
すると、フィリポはガザへの道で、エルサレムに礼拝に来て、エチオピアに帰国する、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官に出会いました。
宦官は馬車に乗り、イザヤ書を朗読していました。
フィリポは御霊に、馬車を追いかけて一緒に行けと促されて、馬車に近づきました。すると、イザヤ書を読んでいる声が聞こえたので、「読んでいることが、おわかりになりますか」と、声を掛けました。
この時代、聖書は巻物になっていましたが、羊皮紙に手書きされたもので、普通の人が手にすることはできませんでした。宦官は、高価な巻物を手に入れて読んでいたのです。
主イエスが公生涯の初めに、ナザレの会堂で読まれたのもイザヤ書でした。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18、19)。そして、主は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と、メシアの来臨と、恵みの時代を宣言されたのです。
さて、エチオピアの宦官ですが、はるばるとエルサレムへ上って礼拝をしたのはなぜなのでしょうか。
遠い国から何か月もかけて旅をしてきました。エルサレムの神殿に巡礼する人たちは大勢いました。
神殿では、ユダヤ人以外の外国人は、「異邦人の庭」までしか入ることが許されてはいませんでした。異邦人の庭の先に婦人の庭があり、その奥にユダヤ人男性が入れる聖所がありました。
外国人は、身分の高い者であっても、聖所で礼拝することはできません。
さらに律法では、宦官のような特徴を持つ人々は、主の会衆に加われないという決まりがありました。
エチオピアの宦官が遠い国からエルサレムまでやってきたのは、神を礼拝したいという魂の飢え渇きによるものでした。
しかし、魂の奥底にまことの満たしを覚えることなく帰国の途につきました。
高価なイザヤ書の巻物が心の支えとなるはずですが、その意味が良く分かりませんでした。宦官が読んでいたのはイザヤ書53章のメシア預言、僕としてのメシアの部分でした。
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」(使徒8:32,33)
宦官は、イザヤ書に記されているこの人、羊のように口を開かないこの人とはだれなのだろう、と疑問に思いながら読んでいたのです。
ですから、フィリポが声をかけた時に、「手引きをしてくれる人がなければどうして分かりましょう」(使徒8:31)と言って、フィリポを馬車に招きました。
フィリポは、イザヤ書からイエスの福音について解き明かしました。
フィリポは、救い主について語りました。イザヤ書に預言されているのは、苦難の僕の姿をとられた、神の独り子の事だと教えたのです。
キリストは、この世を救うために来られ、誰でも信じる者を受け入れて罪を赦し、永遠の命を与えてくださいます。
罪の許しを与えるために、十字架で血を流され、罪ある者のために身代わりの死を遂げてくださいました。そして、三日目に復活されました。
誰でもこの方を救い主として信じ、心に受け入れるなら、命と希望に満たし、永遠の命に生かしてくださいます。
人は、福音、すなわちキリストご自身を受け入れて、初めて魂の安らぎを得ることができます。
エルサレムの神殿に詣でられたという、多分一生に一度の体験は、貴いものかもしれません。しかし、魂のまことの満足は覚えられませんでした。イエス・キリストの福音を聞いたときに、はじめて救いがわかりました。
水のある所に来たので、宦官は、「バプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と聞きました。
フィリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」(口語訳8:37)と答えました。宦官は、「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」(口語訳8:37)と告白して、水の中に入り、バプテスマを受けました。
すぐにフィリポは聖霊に連れさられて姿が見えなくなりましたが、宦官は喜びに溢れて旅を続けることができました。
イエス・キリストを信じることにより、聖霊の喜びと平安に満たされたのです。喜びに満ち溢れて帰ることができました。
救われた者は、外側からの喜びではなく、内からわいてくる聖霊の喜びに満たされます。聖霊は心に平安をもたらします。命の希望に満たします。そして、魂の救いについて心が動きます。
迫害のため地方に離散しなければならなかったエルサレム教会の信徒たちは、散らされた所を巡りながら福音を伝えました。迫害に弱りはててはいませんでした。それは、心が聖霊の喜び、主イエスの救いにあずかった喜びに満ち溢れていたからです。
エチオピアの宦官も国に帰って主イエスとその十字架による救いを喜びと共に語ったことでしょう。現代でも国民の60%以上がクリスチャンという統計がでています。一人の証しが今に繋がっています。
私たちも喜びをもって主イエスを伝えましょう。福音を語る所に救いは起こされます。私たちの喜びが、多くの人に伝わるよう、救いに繋がるようさらに祈り導きを求めて参りましょう。


今週のみことば
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、
 今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない
 すばらしい喜びに満ちあふれています。」
第一ペトロの手紙1章8節



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