阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年6月19日
第3聖日父の日礼拝メッセージ
「待ち、走り寄る父」
ルカによる福音書15章17-24節

今日は、父の日です。日頃のお父さんのご苦労を思い、心から感謝を表しましょう。父の日は、母の日と同じように教会から始まりました。天に召されたお父さんの記念礼拝でした。
1909年に、アメリカのドッドという婦人が、自分を含め6人の子供を育て上げた父親を記念して6月に教会で記念礼拝をささげたことがきっかけになりました。
1980年代になって、日本でも父の日が広く知られるようになりました。
父親や母親の信仰を記念し、家族に対する愛と感謝を覚える日として、父の日も母の日もあることを覚えましょう。
私たちは、今日も教会に集まり、父なる神に礼拝をささげています。なんという幸いでしょうか。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。」(詩編133:1−3)
主の御霊が頭から注がれ、襟に全身に滴り落ちて満たされる。うるわしい兄弟の和合と礼拝の様子をうたっている詩編です。
私たち一人一人に注がれている恵みを賛美しましょう。
私たちは創造主であり、すべてを治められる真の神を「父」とお呼びしています。素晴らしいことです。
しかし、それは、主イエスの十字架の犠牲と復活があったからであることを覚えたいと思います。
ルカ15章は、福音書の中でも大変よく知られている箇所です。
失われたものが見いだされて、居るべきところ、あるべきところに帰ることができたという、3つのたとえが記されています。
迷い出た羊が羊飼いによって見いだされるというたとえ話と、失われた銀貨が見つけだされるという話の後に、「放蕩息子のたとえ」が記されています。
放蕩息子のたとえというより、はかり知れない父の愛の話という方がふさわしいのではないでしょうか。
二人の息子を持つ父親がいました。ある時、弟息子が父親に財産をわけてくれるよう頼みました。本来父親が召された後に相続するものを今、すぐに貰いたいと申し出たのです。
父親は、息子二人に財産を分けてやりました。
すぐに弟息子は財産を現金に変えて、家を飛び出していきました。
遠い国へ旅立ったのです。
弟息子には将来のビジョンも何もなく、ただ自由に遊び暮らしたかっただけでした。
すぐに財産全部を使い果たしてしまいました。無駄に浪費してしまったのです。悪いことに大変な飢饉が起こりましたが、助けてくれる人はいません。何とか人を頼って行くと、畑にやられて、律法で汚れた動物とされている豚の世話をしなければなりませんでした。
食べ物をくれる人はいません。豚の飼料でお腹を満たしたいと願うほどでした。
そこで、やっと彼は我に返りました。自分の心を見ることができました。
父の許へ帰りたい、父の家では雇人さえ有り余るほどのパンで養われているではないか、それなのに、自分はここで飢えて死のうとしている。
はじめて自己中心な自分、勝手なことをして破滅した自分、みじめな自分に気が付き、そのような自分をそのまま受け入れました。
打ち砕かれて、やっと父と我が家のありがたさ分かりましたが。どれだけすばらしい恵みの中にいたかということがわかりました。
しかし、自分のしたことを考えると、とうてい赦されるはずがないと思いました。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18)
このようにお父さんに言って、雇い人の一人としてでも受け入れてもらおうと思い、遠い道を家に向かって歩き始めました。
一方父親は、弟息子のことを忘れたことはありませんでした。
身勝手でどうしようもない、見捨てられてもしかたがないような息子が帰ってくるのを待っていたのです。
息子は、お父さんは自分の謝罪を受け入れてくれるだろうか、雇い人として受け入れてくれるだろうかと案じながら、長い道のりを歩いてきました。
父はまだ遠くにいる息子を認める事ができました。自分の息子が帰って来たのです。父親は、息子を憐れに思い走り寄って抱擁しました。
首を抱き接吻しました。喜びの表現です。愛の表現です。
息子は道々謝罪の言葉を心の中で繰り返して、すぐにあやまろうと思っていました。
父に迎え入れられて言葉を出したのですが、父は聞いてもいないようです。
すぐ僕に、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と命じました。
(ルカ15:22)。
一番良い服、指輪、履物、これらは僕ではなく息子であるというしるしです。息子を受け入れたのです。
父がどれほど息子の帰りを待ちわびていたことかを現わしています。
それだけではなく、肥えた子牛を調理して祝宴を設けました。
これ以上ない喜びでした。
家の中のざわめきを聞いて、畑から帰って来た兄息子の心はおだやかではありませんでした。
弟は勝手なことをしたけれども、自分は父に忠実に従い、勤勉に働きとおしたのです。弟が帰って来たからといってこの喜びようと、祝宴は受け入れがたい思いがあって、家に入ろうとはしませんでした。
そして、父に自分が友達と宴会をするために、今まで子山羊一匹すらくれなかったと、苦情を言いました。すると父は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:31)と諭しました。
弟と兄を比べたら、誰しもがお兄さんは立派で、弟は大変悪い子だと評価するでしょう。
弟は心を迷わせ、道を踏み外しました。兄はどうだったでしょうか。兄は表面的には勤勉で従順であっても、自分の義を主張する生き方でした。自分はいつも正しいと思う人でした。
弟は悔い改めました。新しい人生が始まりました。赦されて、これから始まる人生です。
兄も自分の義を主張する自分の姿に気がついて、悔い改めなければなりませんでした。
天の父は長い間私たちを待ち、父の元に帰ったとき、子として受け入れてくださいました。
ご自分の独り子、イエス・キリストの十字架の犠牲により、罪許され神の子として受け入れられたのです。
私たちも主イエスを信じる前は、迷いの道を進む者でした。自分で正しい者だと思っていても、心に罪を持つ者でした。
自分で自分を義とし、人を裁くような者でした。あるいは自分を誇るような者でした。
イエス・キリストを信じた時、罪がわかりました。自己中心という罪です。悔い改めて、十字架の血汐により聖められました。
天の父は、喜んで受け入れてくださったのです。大きな喜びの声と共に、天の祝宴がもたれました。
父なる神の愛を覚えましょう。愛され赦され受け入れられていることを感謝して、この喜びを伝えて参りましょう。

今週のみことば
「神は、その独り子をお与えになったほどに、
 世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、
 永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章16節


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