阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年6月26日
「見えるようにされた」
使徒言行録9章17-19節

  梅雨に入り、蒸し暑い日が続いていますが、きょうまで守られて礼拝をささげられることを心より感謝します。
教会内ではマスク着用で、少し息苦しいかもしれません。マスクが必要なくなる日が来ることを信じてもうしばらく辛抱しましょう。
コロナ終息の為に祈りましょう。
聖書には目の見えなかった人が癒されて見えるようになったという出来事が何例も記されています。
ヨハネ9章に記されている、生まれながらの盲人が癒されたという出来事は有名です。
弟子たちが主イエスに、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したためか、本人ですか、それとも両親ですかと、お聞きしました。
主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と、お答えになりました。
主イエスは、不幸と思われることの原因が、誰かの罪の結果ではなく、神の御業のためであるという答えを下さいました。
私たちに大きな希望をもたらす御言葉です。
サウロあるいはサウルと呼ばれていた若い時のパウロも、目が開かれるという体験をしました。
パウロは、律法を厳守する厳格なファリサイ派で、クリスチャンを迫害する者でした。
主イエスは、ファリサイ派を盲人の道案内をする盲人と評しました。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」(マタイ15:14)と言われたのです」。
自分は神の律法をすべて知っていて、それを完全に守っている。自分は義なる者だと思っていることを、「見えていない。自分のほんとうの罪深い姿が見えていない」と、指摘されたのです。
自分では正しく人を教え導いているつもりでも、それが的外れなら自分も、人も道を踏み外し躓きます。
罪は的を外すことです。
パウロは、クリスチャンを激しく迫害し、逮捕してエルサレムへ連れてくることに熱心でした。クリスチャンの命を奪うことになっても構わないと思っていました。大きく的を外していました。
パウロはクリスチャンを逮捕するために、息荒くダマスコへ出かけました。
ところが、その途上で復活された主イエスにお会いしたのです。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」その呼びかけに「主よ、あなたはどなたですか」と聞くと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒)9:5)というお答えがありました。
天からの強い光に照らしだされて、パウロは地面に倒れました。御声を聞いて起き上がりましたが、何も見えなくなっていました。
パウロはダマスコに行く事、そしてなすべきことがわかるという主の指示にしたがって、人に手を引かれてダマスコに入りました。
パウロは三日間、見えない中で食べることも飲むこともしませんでした。
主イエスはパウロにご計画を持っていました。それは、使徒としてお召しになり、宣教の為に遣わすというご計画でした。パウロは特に異邦人のための宣教者として用いられる様になります。
主イエスは、パウロの許にダマスコのアナニアという弟子をお遣わしになりました。このアナニアは主イエスとの祈りを欠かさない人でした。その交わりは大変親しい交わりでした。
主は「アナニアよ」と呼ばれます。アナニアは「主よ、ここにおります」とお答えします。
その昔、主はサムエルに呼びかけられました。サムエルは「ここにおります」と答えましたが、祭司エリが呼んだと思ってエリの許に行きました。エリは「わたしは呼んでいない」と答えたのでサムエルは戻って寝ましたが、その後2度、計3度も呼びかけられました。3度目にエリの許に行ったとき、エリは主が呼んでおられることを悟り、サムエルに次に呼ばれたら、「主よ、お話ください。僕は聞いております」(Tサムエル3:9)と答えるようにと教えました。
主はサムエルに、エリの家についての予告をなさいました。それは大変厳しい御言葉でしたが、エリはサムエルを通して神の言葉を受け入れました。
私たちの主は呼びかけてくださるお方です。
主はアナニアにパウロの許へ行き、手を置いて祈るようにと語られました。
アナニアは、パウロが激しい迫害を加える者であることを知っていたので躊躇しました。
しかし主はアナニアに、パウロは多くの人の救いのために選んだ器であり、主イエスの御名を宣教するために、どれほどの苦しみを受けるかということを伝えました。
そこでアナニアはパウロの許に生き、手を置いて、「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」(使徒9:17)と祈りました。
するとパウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりました。
パウロは、これまで自分は目が見える者、誰よりも律法を学び知っている者、正しい者であると自負していまし、ガマリエルという大学者のひざ元で厳しい教育を受けた者でした。
ファリサイ派の中でも特別な者であることを自負していました。
ところが、復活の主に全く打ち砕かれました。
今まで自分が持っていたエリート意識、プライド、学問、地位などは、主イエスの前に価値のないものだと気づきました。パウロはそれらを「塵あくた」と呼んでいます。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています」(フィリピ3:8)パウロにとって救い主に見いだされ、主の用に召され、用いられることは世のどのようなものとも比べられない価値あるものと告白しています。
パウロは目が開かれると同時に心の目も開きました。
見えなかったものが見えるようになりました。それは復活されたイエス・キリストと、その十字架の救いです。
一方、主イエスにより目を癒していただいた、生まれながら目の見えなかった人は、ファリサイ派に何度も呼び出されて、なぜ目が見えるようになったのかと問いただされました。ファリサイ派は何としても主イエスを認めたくなかったからです。ファリサイ派は、自分たちは正しい者、目の見える者と信じていました。
主イエスは彼らに、「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9:41)と言われました。
私たちの心の目は見えているでしょうか。汚れてかすんでいると主イエスを仰ぐことができなくなります。パウロの目は、うろこのようなものがついていて見えなかったのです。見えないと主の御言葉を聞いてもすぐに忘れてしまいます。
私たちの心の目は澄んでいるでしょうか。幼子のような心と目を持っているでしょうか。主イエスとその御言葉を慕い求めているでしょうか。主イエスの呼びかけに答えているでしょうか。私たちの目は何を、どこを見ていますか。
主イエスを仰ぎ見る霊の目を開いていただきましょう。主イエスの御声をさやかに聞きましょう。私たちも主の用に用いられるのです。
「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください」(詩編119:18 口語訳)
さらに主イエスの麗しさ、御言葉を慕い求め、御言葉に応答できるよう祈り続け、主の栄光を現わしながら進んでいきましょう。

今週のみことば
「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちの
 くすしき事を見させてください。」
 詩編119編18節(口語訳)



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