阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年7月3日
「闇から光の中へ」
ヨハネによる福音書8章12節

 暑い毎日ですが守られてきょうも礼拝をささげられることを感謝します。
主イエスはご自分の事を、「命のパン」「まことのぶどうの木」「良い羊飼い」「わたしは門」「道・真理・命」、「復活、命、」などと紹介されました。
このようにご自分をたとえられたのは、御自分が人を救い、命を与えられる救い主であることを証しされるためでした。
ヨハネ8章の1節からは、姦淫の場で捕らえられた一人の女性が律法学者やファリサイ派によって、主イエスと、群衆の前に連れてこられたことが記されています。
ファリサイ派は、皆の真ん中にこの女性を立たせて、主イエスに「律法ではこのような女性は石打の刑と定められているが、あなたはどう思いますか」と質問しました。
これは、主イエスを試して、訴える口実が欲しかったためでした。
主イエスは、かがんで地面に何か書いておられました。しかし、彼らがしつこく問うので、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)とお答えになりました。
そして、また、地面に何かを書き続けられました。
すると、これを聞いていた人々は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去って行きました。
主イエスとこの婦人だけが残りました。
主は身を起こされて、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」とお聞きになりました。婦人は、「主よ、だれも。」と答えました。
すると、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と、御声をかけてくださいました。
この婦人は、暗闇の中を歩んでいました。律法で裁かれても仕方がない、罪を犯していたのです。
聖書には、「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)
とあります。
「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(ローマ3:9)と指摘しています。これはユダヤ人とギリシア人だけではなく、すべての人が罪を犯しているという意味です。
主がご覧になるのは人の心です。罪は心にあります。心にある罪をだれも消し去ることはできません。
罪は悲しみと混乱をもたらし、多くの傷を残します。
ダビデはイスラエルの王でした。まだ少年の時に預言者サムエルによって油を注がれ、王として選ばれていました。
サウル王に仕えるようになり、ダビデに嫉妬したサウルに命を狙われますが、二代目の王として君臨します。
やがて、ダビデは先頭に立って戦いに出なくても良い境遇になりました。国と王位は安定しました。
その時もイスラエルの全軍は戦いに出て行きましたが、ダビデは王宮に残りました。
午睡から覚めると、美しい人妻バト・シェバが目に留まりました。
ダビデはバト・シェバを召しだしました。バト・シェバは子を宿しました。
ダビデは慌てました。夫ウリヤを戦場から呼び戻し、なんとか自分の罪を隠そうとしましたが、うまくいきません。
ダビデはウリヤを王宮で歓待しましたが、ウリヤは仲間が戦場で野営しているのに、自分だけ家に帰るわけにはいかないと、王宮の入口に泊まりました
ダビデは恐ろしい計画を手紙に記し、それをウリヤに持たせて戦場に送り帰しました。
ウリヤを激しい戦いに出して、戦死させるという手紙です。この計画のため、ウリヤだけではなく、多くの兵士が戦死したのです。
ダビデは姦淫と殺人という恐ろしい罪を犯しました。
ダビデは神に愛され、神に守られ、祝福された人です。それなのに、どうしたことでしょう。
人の心はもろいのです。いつしか心に罪が宿り、高慢と残酷さに溢れ、人を人とも思わない恐ろしい罪に満たされます。
ダビデも罪の暗闇の中にありました。
預言者ナタンが遣わされて罪を指摘され、ダビデは悔い改めることができました。詩編51編は悔い改めの詩編として有名です。
「わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください」(詩編51:4)
箴言4章23節は、「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」と教えています。
罪の誘いに迷わされることなく、しっかりと自分の心を見張るのです。
主イエスは真の光としてこの世に来てくださいました。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)とあります。
主イエスは真の光として世に来られたのです。
光は暗闇の中で輝いています。
人を罪の暗闇の中から救い上げるために、主イエスはこの世に来られて、十字架への道を進んでくださいました。
人が罪の許しをいただき、永遠の命をいただく方法は、主イエスの十字架による以外にはありません。
主イエスは罪人を救うためにこの世に来て下さいました。丈夫な人には医師は必要ありません。いるのは病人です。
罪に苦しみ、罪を悲しむ人の許に主イエスは訪れてくださいます。
「あなたのためにわたしは十字架に架かり、命を捨てた。そして三日目に甦った」と語りかけ、手をとり、導き続けて、いのちの光の中を歩ませてくださいます。
罪を赦された者は、大胆に神に近づくことができます。
主イエスの十字架により罪許された者は、神に近づくことができます。
「神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)
エデンの園で罪を犯したアダムとエバは、神が近づいてくる足音を聞いて、御顔を避けて、木の間に隠れなくてはなりませんでした。
自分たちが神の言葉に背いて罪を犯したことが分かっていたからです。神は、「どこにいるのか」と聞かれ、人は「あなたの足音が園の中に聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)と答えました。罪を犯し、神の御顔を避けなければなりません。
しかし、罪人を招き、赦すために主イエスは光としてこの世に来て下さいました。罪人を救うために来られたのです。
誰でもこの方を救い主として信じ受け入れるなら、十字架により罪を赦され、神の子、光の子とされるのです。
主イエスは、あの婦人に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない」(ヨハネ8:11)と告げてくださいました。
悔い改めるとは、もう同じことをしない。生き方を変えるということです。
主イエスは私たちにも、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と約束してくださいました。
命の光である主イエスが共に歩んでくださり、正しい道に導かれるのです。
キリスト者の歩みは、主イエスが導き続けてくださいます。真の光の道を歩むことができます。
試練や、苦難はあるでしょう。しかし、主イエスが共におられ、命の光の中に導き続けてくださいます。危険も苦難も乗り越え、潜り抜け、主イエスと共に進みゆくことができるのです。
世の光である主イエスをほめたたえ賛美しつつ進みましょう。

今週のみことば
「わたしは世の光である。
 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 ヨハネによる福音書8章12節

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