阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年7月10日
「神の言葉によって」
ヤコブの手紙1章21-22節

 日々主の守りの中に導かれて感謝します。今日も神の言葉をしっかりと聞き、御言葉によって生きる毎日であるよう祈りましょう。
主イエスの十字架により、罪許され神の子とされた者は、神を賛美し、すべてのことに感謝し、心に聖霊の喜びと平安をいただいて生きていきます。
主イエスを信じて、新しく生まれ変わったからです。新生の恵みにあずかりました。
神を礼拝することが喜びであり、御心に従うことも喜びとなります。
神との交わりである祈りを大切にし、いつも御心を求めて祈ります。
神は祈りに答えてくださるのです。
キリスト者にとって、御言葉は魂の糧です。ペトロはその手紙の中で、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Tペトロ2:2)と勧めています。
御言葉は霊の乳であり、これによって救われ、成長するための、なくてならない尊いものと教えています。
私たちは毎日どのように御言葉と取り組んでいるでしょうか。
ヤコブの手紙1章19節には、人は話すこと、怒ることに遅く、聞くことには早くあるようにと、勧めています。
人はいろいろなことで怒ります。どのような時に怒るのかと考えると、自分の思うように物事が進まない時や、人の意見や態度が気に入らない時などが考えられるのではないでしょうか。
聖書は、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」。(エフェソ4:26,27)と教えています。
怒ることがあってもその日の内に解決しなさい。そうでないと、その怒りの中にサタンが働いて、悪い循環に引きずられてしまうからです。怒りは良い実をもたらさず。神の求める清さ、正しさを実現しません。
祈りながら自分の心を治められる人は幸いです。聖霊の寛容さをまとうことは素晴らしいことなのです。
私たちはいつも主イエスの十字架の前に膝まずき、その血汐によって罪を赦していただくことができます。素直な心は罪を悔い改める所から生まれます。
私たちには御言葉が与えられ、魂に植え付けられています。キリスト者は、神の言葉によって生かされます。
ある時、主イエスのもとへ一人の男の人が走り寄って、ひざまずきました。主イエスに、永遠の命を得るには何をすればよいのかと、お尋ねしたのです。
主イエスは、モーセの律法を知っているはずだとお答えになりました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」(マルコ10:19)という、人が守るべき律法を示されました。
すると、この人は、それらは子供の時から守ってきましたと言いました。
そのように答えた人を、主はどのようにご覧になったのでしょうか。
この人をご覧になる目は慈しみに満ちていました。
主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある」
(マルコ10:21)と指摘され、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すよう教えられました。
そうすれば、天に富を積むことになり、それから「わたしに従ってきなさい」と言われたのです。
この人はどうしたでしょうか。主イエスのお言葉に顔を曇らせ、深い悲しみと嘆きをもって帰って行きました。
主の許に来たときは走り寄ったのですが、帰る時は暗い気持ちでとぼとぼと帰って行きました。
沢山の財産を持ち、この財産が何よりも誰よりも大切であり、失いたくなかったのです。
主の御言葉に従えない心の苦しさを持ったまま帰りました。
この人は主イエスの許へ行きましたが、生活は変わったでしょうか。
何も変わりませんでした。多くの財産を守りながら、神の国とは遠い生活を続けました。
御言葉を知っていることと、それを守ることとは違います。私たちも気を付けないと、この男の人と同じことをしてしまうかもしれません。
人にとって一番大切なことは、主イエス・キリストを救い主として信じ、心に受け入れることです。
罪を赦し永遠の命を与えてくださるのは、この方だけです。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)
使徒たちは、力強くイエス・キリスト以外に救いを与えられる存在はないと、証ししました。
私たちの周囲にも救われなければならない魂が大勢います。主イエスの救いを伝えることができるのは先に救われたキリスト者です。
渇いた魂に、御言葉が伝えられると、その渇きは癒されます。何をもっても満たされなかった心は、主イエスとその御言葉によって満たされます。
主イエスによって罪許され、神の子とされた者は御言葉によって生かされます。
御言葉の一つ一つをしっかりと心に受け止め、聖霊の助けをいただきながら日々従います。
聖書は繰り返し御言葉を行うようにと教えます。御言葉を行う、すなわち生活することは難しいのでしょうか。
決してそうではありません。
神の愛を確信すると、神に従うことが大きな喜びとなります。
神は私たちが神と人に仕える事、神の栄光の為に生きることを教えられます。
主イエスが僕の姿をとられてこの世に仕えられたお姿が、模範になります。
十字架の直前の、過ぎ越しの食事の席で、主イエスは食事の席から立ちあがり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。
たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭かれました。これは、僕のすることです。主イエスが弟子たちになさることではありませんでした。
そして、席に戻られてから、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14,15)と教えられました。
弟子たちは、だれが一番偉いかなどと議論するような者でした。
また、主イエスが栄光の座に着かれる時は、その右左に座らせてほしいと願うような者でした。謙遜さには遠い者たちでした。
主イエスはそのような弟子たちに、大切なことを教えられたのです。
身を低くして、互いに仕え合うことをお教えになりました。
主イエスは僕の姿をとられて、真の謙遜さをお示しになりました。
御言葉を受け入れ、御言葉を喜びとし、御言葉を口ずさみながら進むとき、私たちの心は、聖霊の喜びに満たされ、聖霊の実が結ばれます。
「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」。
実の中に「柔和」とありますが、これは「謙遜」の意味も含まれます。
御言葉を愛し、御言葉によって信仰が養われ、御霊に満たされて進んでいきましょう。
主イエスの救いを語りましょう。御言葉は救いの御言葉です。
「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」
(ヤコブ1:21)。
生ける神の御言葉は、救いと命の御言葉です。
救いを喜び感謝し、さらに主の名をほめたたえましょう。

今週のみことば
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、
 人を教え、戒め、誤りを正し、
 義に導く訓練をするうえに有益です。」
Uテモテの手紙3章16節


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