阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年7月17日
「キリストに結ばれて」
コロサイの信徒への手紙2章6-7節

 主イエスの恵みを感謝します。天候不順の日々ですが、日々守られ礼拝をささげられることを感謝します。
健康が守られていることを感謝します。また、体調不良の中にある兄姉もおられますが、主の完全な癒しを信じます。私たちは弱さを覚える時、あらためて主イエスの尊い恵みを知ることができます。
今日も共におられる主を、心から賛美します。
人がどのように歩むべきかは、聖書が教えています。
「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
主イエスが教えて下さる義の道に歩み、主イエスの慈しみを愛して、神と共に歩むことを示しています。神と共に歩むにはへりくだった心が必要です。
私たちは、それぞれの時に主イエスを救い主と信じ、心の王座にお迎えしました。
主イエスは私たちを罪から解放し、永遠の命を与えてくださいました。救いを受けたのです。
人は罪のため神と断絶していました。真の神から離れて、滅びに向かっていました。神の愛を知らず、自分中心の生き方しかできませんでした。
人の罪とは、真の神を信じない事、的を外した生き方を言います。
神から離れている人間は、神の愛から遠い生き方しかできません。
人を憎み、許すことがなく、恨みや嫉妬などという心の闇を抱えて生きていきます。
神はそのような人を愛し、その独り子をお遣わしになりました。人の罪を背負い、身代わりとして十字架で死ぬためです。
罪の罰を受けなくてならないのは、罪ある人です。しかし主は罪人の救いの為に、身代わりとして十字架で死んでくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
神は罪人を愛し、救うためにその独り子を世に賜ったのです。
この方を信じる者は誰でも救われます。
主イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)と宣言されました。
自分は罪を犯すような人間ではなく、正しい者だとうぬぼれているような人の為ではなく、罪を悲しみ、罪の重さに打ちひしがれている人を救うために来られたと、はっきりと言われました。
私たちはこのすばらしい救い主を信じて救われました。ハレルヤ!
救われた者たちに、御言葉は「キリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイ2:6)と勧めています。
キリスト者は、主イエスに繋がり、その命によって生かされています。
主はご自身のことを「まことのぶどうの木」と証しされました。ぶどうは繁栄と祝福の象徴です。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。(ヨハネ15:4−5)
主イエスに救われ、救われた者は主にしっかりと結ばれて、主イエスの命に生きるのです。
さらに、御言葉は「キリストに根を下ろす」ようにとあります。
自分自身をキリストご自身に根づかせ、しっかりと固定させるということです。
主イエスこそ私たちが根を下ろすべき土台であることを、覚えましょう。
根がしっかりと結ばれていれば、命に満たされ続けます。
主イエスに救われた者は、罪から解放され、日々主イエスの姿に変えられていくのです。キリストの性質をいただきながら成長していきます。
主イエスを信じる以前は、誰でも何かに迷いながら、あるいは満たされない思いを持ちながらも、根本的な解決方法は知りませんでした。
罪を犯していても、罪についてさえ知りませんでした。
今の時代、ハラスメントということばを毎日のように聞きます。ハラスメントとは、嫌がらせとかいじめという意味があります。
いろいろなハラスメントがあるようですが、職場で上司がその立場を利用して、執拗な叱責や嫌がらせをして、部下を追い詰めるのがパワハラと呼ばれるものです。大変な苦痛を強いることになり、普通に生活ができないくらいの影響を与えることがあります。
なぜ、こんなことができるのでしょうか。自分の持っている価値観や経験が絶対で、それに応答できない者をだめな人間として見下すからです。あるいは、自分の満たされない心を八つ当たり的にぶつけるのかもしれません。いらだち、思いやりのなさ、愛の欠如、これらが理由として考えられます。
「隣人を愛する」という教えを知り、守るならハラスメントはありません。
争いごともそうです。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4:1−3)とあります。
この御言葉は、主の兄弟、義人と呼ばれたヤコブが、各地に離散しているユダヤ人クリスチャンに宛てた言葉です。
手紙全体にわたって、具体的に信仰によるクリスチャンの考え方、生き方が教えられています。
だれでもが持っている、肉の思いが争いや、戦いの原因になると教えています。
御心にそって願い求めるなら、その祈りは聞かれますが、自分の欲望や楽しみの為に願っても、動機が間違っているので得られないと教えています。的を外れた生き方にならないよう、心を見張り、自分自身のために祈ることも大切です。
イエス・キリストの十字架の前に膝まずき、その血汐を仰ぎ、悔い改めることから信仰は新たにされます。
日々、ぶどうの木である主につながっている枝であるかを確認するのです。
私たちはだれから信仰を教えられたのでしょうか。教会でのメッセージ、主の前でのデボーション、信仰による家族の教え、何よりもキリストご自身から、聖書から教えられています。
御言葉を愛し、その御言葉にしっかりと根をおろして、主の御霊に満たされるクリスチャンになるのです。
キリスト・イエスにしっかりと結ばれている者は、すばらしい実をみのらせます。自分の願いや努力で実を結ぶのではありません。
キリストの命につながるので実を実らせることができるのです。
「あふれるばかりの感謝」をもって生きるのです。
私たちは罪深い者であったのに、主の十字架により神との和解がなされ、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ1:22)とあるように、神の前にこれ以上ないほどの恵みをいただくことができました。
信仰に歩み、神の愛を受け、神の愛を伝え、キリストの良い香りを放ちながら、また、救いの喜びに溢れて歩み続けたいと思います。
このすばらしい救いがすべての人に及ぶよう、祈りつつ、私たちに委ねられている魂に、伝えていきましょう。


今週のみことば
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、
 その愛する御子の支配下に移してくださいました。
 わたしたちは、この御子によって、贖い、
 すなわち罪の赦しを得ているのです。」
コロサイの信徒への手紙1章13-14節



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