阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年7月24日
「十字架の言葉」
Tコリントの信徒への手紙1章18-19節

 今日も教会に集まり、心を合わせて礼拝できることを感謝します。
主イエスは私たちをいつも恵み、支えて導いて下さいます。救い主を仰ぎつつ、前進していきましょう。
パウロは、コリントの教会に手紙を送りました。第一の手紙はパウロがエフェソに滞在していた時に書かれたと思われます。
コリントの教会はパウロの宣教の働きの実の一つでした。第二回伝道旅行の時に、コリントに一年半滞在して福音を伝え、多くの人々が救われました。(参・使徒18章)。
「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた」(使徒18:4)とあります。
パウロは、アキラとプリスキラという敬虔なクリスチャン夫婦の家に住み込み、テント造りをしながら宣教しました。
コリントでは、宣教するパウロを口汚くののしり、反抗する人々もいましたが、多くの人々が主イエスを信じました。
主は「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:10)と語りかけ、励ましてくださいました。
その後、アキラとプリスキラと共にエフェソ経由でアンティオキアに帰りました。
しばらくの滞在の後、第三回目の伝道旅行に出発することになります。
第三回目の伝道旅行の際、エフェソに滞在した時に、コリント教会のもめごとを知り、手紙を書きました。
コリントは、商業が盛んな繁栄した町でした。しかし、アフロディナという女神信仰が盛んで、風紀の乱れた町でもありました。
偶像礼拝が盛んな町でしたが、イエス・キリストを信じる者の群れが建て上げられました。
しかし、パウロが去ると教会の中にさまざまな問題が起こりました。
教会が分裂し、不道徳な問題が起きていました。
パウロは、様々な問題に対しての回答を記し、信仰により一つになる様にと書き送っています。
「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」(Tコリント1:10)と教えました。教会に一致がなければ教会は建て上げられないのです。
救われた者の視線はどこに向けられるのでしょうか。イエス・キリストに向けられるなら、一つとなることができます。皆が主を仰ぐのです。
主の御言葉を聞き、従うところに一致があります。
また、人を自分より優れた者として認め、受け入れ合う所に一致が生まれます。
さて、コリントの教会では、人の知恵や知識を重要なことと考えていました。そのために混乱が起こったのです。
人の知恵や知識では一つとなることはできません。かえって意見が合わず、バラバラになってしまいます。
十字架の言葉こそ、唯一の答えなのです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Tコリント1:18)
十字架の言葉とは、主イエスご自身であり、主の十字架と復活についての言葉です。
福音と言い換えても良いでしょう。
パウロがコリントに来る前、アテネにいた時、この町に多くの偶像があるのを見て悲しみ、また、怒りを覚えました。
そこで、会堂や広場で多くの人に福音を語りました。パウロがなにか目新しいことを話していると思った人々は、パウロをアレオパゴスへ連れて行きました。
アテネの人たちや、滞在する外国人は、何か目新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を送っていたのです。
パウロは、アレオパゴスに立ち、真の神について語りました。
「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(使徒17:29)と語り、イエス・キリストの救いと復活を語りました。福音を伝えたのです。
キリストの復活を聞くと、あざ笑う者がいました。「いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言う者もいました。
あざ笑い、拒絶する者がいましたが、福音を聞いて救われる者が何人かいたのです。
名前が挙げられています。「アレオパゴスの議員ディオニシオ、また
ダマリスという婦人やその他の人々もいた」(使徒17:34)とあります。拒絶する人々と対照的な姿です。
「十字架の言葉」が語られた時の、それぞれの応答の様子が良くわかります。
一方は、十字架の言葉をあざ笑い、退ける、一方は福音を信じ救われたのです。
十字架の言葉は信じようとしない者にとっては愚かに見えます。
人の救いはどのようにして与えられるのでしょうか。
救い主が私たちすべての者の身代わりとして十字架で命を捨てられ、罪の贖いを成し遂げてくださいました。
そして、三日目に甦られたのです。今生きておられる主イエスを信じて、恵みにより救われました。
救いに知識も知恵もいりません。主イエスが用意されている恵みに飛び込めばよいのです。
私たちがこの救いを語る時、とまどい、あざ笑い、拒絶する人がいるかもしれません。
しかし、人は十字架の言葉によって救われるのです。
世の知恵で人は救われません。
「神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Tコリント1:21)とあります。
宣教とは、イエス・キリストを語ることであり、十字架の言葉を伝えることです。
パウロはイザヤ書29章14節のことばを引用しています。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」(Tコリント1:19)
人の知恵や賢さで救いは得られません。
人の救いは神の恵みにより信仰によるのです。
「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
(ローマ10:8―10)
「神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」。(Tコリント1:21)
人々には主イエスの十字架の出来事とその御言葉が愚かに見えるかもしれません。しかし、これが神の知恵です。
私たちは、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Tコリント1:25)という御言葉を心に深く留め、改めて十字架の言葉にのみ救いがあることを、覚えたいと思います。
教会の使命は、この十字架の言葉を語り続けていくことです。
人には愚かと思われても、ただひたすら祈り、十字架の言葉を語り続ける時、福音によって神の救いの御業は現れます。
用いられる教会であるように祈りましょう。そして伝えましょう。
私たちには委ねられている魂が大勢いるのです。

今週のみことば
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。」
Tコリントの信徒への手紙1章18節



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