阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年8月7日
「命の水」
ヨハネ4章14節

 酷暑の日々が続いていますが、主の守りがあり、全能の御手に支えられていることを感謝します。
 今日から8月中の予定で、YouTubeでの礼拝になります。
皆様のご家庭を家の教会として、ご家族で礼拝をしましょう。YouTubeの礼拝が広く用いられるよう祈りましょう。

さて、人が生きていくためには、食物はもちろんですが、水がなくてはなりません。暑い毎日ですが、私たちは水が豊かに与えられて、生活に何の支障もないことを感謝します。
しかし、ひとたび水不足になればたちまち困ったことになります。資源は無限ではないこともしっかりと覚えたいと思います。
水が与えられていることも、すべての事も当たり前ではなく、主の恵みであることを覚えましょう。
主イエスはユダヤからガリラヤへ行かれる時、サマリアをお通りになりました。南北に細長いイスラエルは、南にユダヤ、北にガリラヤがあります。その中間にサマリアがありますが、通常ユダヤ人は、サマリアを通ることはありませんでした。
わざわざヨルダン川を渡って大きく迂回して旅をしました。
ユダヤ人は、サマリア人と決してつきあうことはせず、かかわりを持ちません。
サマリアは北王国の首都でしたが、アッシリアに滅ぼされました。そのころサマリアに入って来た他民族との結婚で、混血の民となったので、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑するようになりました。
宗教的にもモーセ五書のみ受け入れ、ゲリジム山を聖地として礼拝をささげることで、ユダヤ人とは相いれない様になりました。
そのような背景の中で、主イエスは、サマリアを通って行かれました。
スカルという町で、主イエスは旅に疲れてヤコブの井戸のそばに座っておられました。正午ごろで、弟子たちは食物を買いに町へ行っていました。
普通、水を汲むのは早朝で、その日に使う水を井戸から汲みました。
ところが一人の婦人が、昼の12頃に水を汲みに来たのです。何か事情のある人に違いありません
主イエスは、この婦人に「水を飲ませてください」と言われました。
この婦人は、ユダヤ人である方がサマリアの女である私に、水を飲ませて欲しいと言われるのですかと問い返しました。
ユダヤ人男性がサマリア人の婦人に話しかけることはありませんでしたから、戸惑ったのでしょう
この婦人は、あくまで井戸の水こだわって会話を続けましたが、主イエスは、永遠の命に至る水を教えたかったのです
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。
この婦人はこの御言葉を聞いて、井戸の水の事だと思い、自分が水を汲みに来なくてもよいように、「その水を下さい」と言いました。
この婦人には、5人の夫がいましたが、今は6番目の人と生活していました。しかし、夫ではありませんでした。婦人は主イエスにそのことを指摘され、さらに礼拝について教えられると、水瓶をおいたまま町へ行き、私の事をなにもかも言い当てた人がいます。この人がメシアかもしれませんと人々に言いました。
人々は、主イエスの許に来て自分たちの所へとどまるようにお願いしました。主は2日間滞在されて御言葉を語り、多くの人々が信じたのです。
この人々は、主イエスを信じて救われました。「永遠の命に至る水」を信じたのです。
主イエスは、ユダヤ人もサマリア人もさらにどこの国の人でも救われるのです。
私たちは、暑さの中に体が渇き、水を切に求めるように、魂の渇きを覚えているでしょうか。
詩編42編に、「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩編42:2)とあります。
私たちは水が豊かな国に住んでいて、川といえば清らかな渓谷や、滔々と流れる川をイメージします。ところがパレスチナの乾季には川は涸れて水はなくなります。
鹿がその涸れた谷に水を求めます。命を保つためには必要なのです。水を求めて必死です。
それほどまでに私たちは魂に渇きを覚え、主イエスの許に行っているだろうかと省みるのです。
主イエスの恵みがあまりにも素晴らしいので、その恵みの中に安住していることがあります。
私たちはその恵みの中に、なお自分の魂を省みる必要があります。
サマリアの婦人は日々の生活の中に、魂に満足を得られないので、夫を5人、さらに夫ではない人と生活するようなことになったのです。夫を変えれば満足すると思っていたかもしれません。それでも魂のまことの満たしはなかったのです。
ファリサイ派のニコデモは、夜主イエスを訪ねてきました。昼では主を訪ねた事が人に知られる恐れがあったからです。ニコデモは、イスラエルの教師だと主に指摘されています。
主イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と、お教えになりました。
ニコデモは理解が及ばずに戸惑いました。
ニコデモがファリサイ派の教師でありながら主イエスを訪れたのは、魂に渇きを覚えて、まことの救いを得たかったのです。
ファリサイ派の教えでは魂は満たされませんでした。
主イエスは、御自分の十字架の予告をされ、十字架は「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:15)とお告げになりました。
ニコデモは主が十字架で死なれた後、改めてこの時のお言葉を思い出したに違いありません。没薬と沈香を混ぜたものを100リトラばかり持って来て、アリマタヤのヨセフと共に主イエスの葬りの支度をしました。主イエスこそ魂を満たされる救い主であることを信じました。
マタイによる福音書を著わしたマタイは、かつては取税人でした。人々から蔑まれ、心に満足はありませんでした。
主イエスは、「わたしに従いなさい」と声をおかけになりました。マタイは直ちに立ち上がり、主に従いました。
満たされようがない魂の渇きは、主イエスによって満たされました。
マタイは自分の家で、主イエスや大勢の取税人たちと食事をしました。
人々から蔑まれている人々は主イエスと食事の席に連なり、どれほど嬉しかったことでしょう。食事の恵みとともに心も満たされました。
これを非難したファリサイ派に、主は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と教えられました。
 私たちは日々静まって、主イエスの前に出て、私たちの魂を差し出しましょう。
私たちの魂は、主の聖なる御霊に満たされているでしょうか。魂の日照りにカラになったままかもしれません。
主に求めるなら御霊は無限に与えられ、魂を満たし、溢れ流れるのです。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。」(イザヤ55:1)
この御言葉は、主イエスが下される御霊を指しています。値無しに恵みを与え、命を与えられる主イエスをほめたたえます。
主イエスは私たち一人一人を訪ねてくださり、求めるなら御霊に満たしてくださいます。
主イエスの十字架の救い、与えられた永遠の命、無限に賜う聖霊の満たしを受けながら、賛美し、喜びの声をあげ、生きておられる主を証しし続けましょう。


今週のみことば
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
 わたしが与える水はその人の内で泉となり、
 永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネによる福音書4章14節



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