阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年8月28日
「御言葉によって生きる」
マタイによる福音書4章1-4節

 8月最終の日曜日を迎えました。私たちは今日までYouTubeで礼拝をささげ、来週9月4日(日)から、コロナウイルス感染防止に注意しながら教会に集まり、日曜学校を再開し、聖日礼拝をささげます。
祈りながら準備をしましょう。
教会では密をさけ、マスク着用、手指の消毒をお願いいたします。
コロナの勢いが治まるまで、お交わりは最小限に止めましょう。
体調の優れない時や、発熱がある時は無理をしないで体を休め、YouTubeで礼拝してください。日曜夜には配信されます。
万一周囲で陽性の方があったときは、教会にもお知らせください。
お互いに注意をしながら集いましょう。
 主イエスは、公生涯の初めにバプテスマのヨハネから洗礼を受け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になりました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)という声が天から聞こえました。
主イエスは荒野でサタンの試みをお受けになりましたが、それは聖霊に導かれての事でした。
主は40日間断食をされて、空腹を覚えられました。すると、誘惑する者が来て、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と言いました。
「誘惑する者」とは、サタンを指しますが、サタンは常に誰に対しても、神と神の御心から遠ざけようと働きかけます。
主イエスを信じて救われた者さえ、救いから引き離そうとするのです。
私たちはうかうかと、サタンの誘惑に足をすくわれるようなことがあってはなりません。
主イエスは、このサタンの誘惑に対して、御言葉をもってお答えになりました。
「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)
この御言葉は申命記8章の御言葉の引用です。
出エジプトをしたイスラエルは、約束の地はすでに与えたという神の言葉を信じられず、その地の民を怖れて、ヨルダン川を渡れませんでした。
イスラエルは、荒れ野で40年間の訓練を受けなければなりませんでした。40年の訓練の目的は、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)と、教えられています。神の言葉によって生かされていることを知り、信仰が確固たるものになるための訓練でした。
サタンは、主イエスのお答えを聞き、第二、第三の誘惑を試みましたが、主はいずれも御言葉によってお答えになり、サタンは主から離れ去りました。
主がサタンを退けられた御言葉は、いずれも申命記6章の御言葉でした。「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4:7)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10)
主イエスは御言葉を蓄えておいででした。御言葉は霊の剣であり、信仰の戦いのための、積極的な武器なのです
エフェソ書には、「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」。(エフェソ6:17)とあります。
神の尊い御言葉は、魂を救いに導きます。御言葉の剣で、霊の戦いに勝利をすることができます。
私たちが日々ささげる祈りは、どのような祈りでしょうか。個人的な問題や、必要の為に祈ることが多いのですが、私たちはまず、神の御心を祈ることを知っています。
神の御心はすべての人が救われ、永遠の命を得ることです。
主イエスは町々村々を巡回されて、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)と言われて、宣教をなさいました。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」(マタイ4:16)というイザヤの預言が成就しました。
主イエスは、まことの救いの光であり、滅びゆく者に命を与える大きな光としてこの世に来て下さいました。
主イエスはすべての人の罪の身代わりとして十字架に架られ死んでくださいました。そして、三日目に復活されて今も私たちのために執り成し続けてくださいます。
主イエスの宣教の働きは、使徒たちによって続けられました。
どのような迫害があろうとも、宣教はとどまらず、2000年以上福音は語り継がれてきました。
時代ごとに救われる者たちが、イエス・キリストと、その救いを伝え続けてきたのです。
主イエスを宣べ伝えていくという信仰は、どのように養われるのでしょうか。御言葉を聞き、信じ、御言葉によって養われ、御言葉を魂に植え付け、御言葉に従うということによります。
宣教は神の命令であり、その動機はアガペーの愛以外にはありません。
キリスト者は、神を愛し、隣人を愛し、神と人に仕えて神の栄光を現わす者とされました。それが主イエスを信じ、新しく生まれた者の生き方です。
隣人を愛するとは、親切にする、手を差し伸べて助ける事などと考えることができます。
「愛は寛容であり、愛は親切です」(Tコリント13:4新改訳)とあります。
愛は寛容と親切です。人はもともと罪深く、自己中心が強いので、自分が犠牲を払って人を愛することはできませんでした。
しかし、主はご自身の十字架の犠牲で愛を教えてくださいました。
主を信じ、主を愛する者は、神と人を愛し、仕える者に変えられました。
互いに仕え合う姿は神の目に適い、人にも麗しいものとして受け入れられます。人々は、キリスト者が互いに愛し合う姿を目の当たりにして、キリストの弟子であることを認めます。
初代教会では、人々がクリスチャンの姿を見て好意を持ち、救われる者が日々起こされました。
言葉による宣教と、生活による宣教が同時になされました。
隣人を愛することとは、キリストを伝え、永遠の命に導くことに他なりません。
教会とキリスト者に宣教が委ねられているのです。
 主イエスの御心である宣教の為に祈り、また、しっかりと御言葉を心に蓄えて、宣教をしていき、また、宣教は次の世代が受け継ぐことができます。
今、主イエスにより救われた私たちは、まず多くの人の魂の救いを祈りましょう。
サタンは何とかして救いから遠ざけ、主イエスの栄光の光から引き離そうとしますが、私たちには信仰と、御言葉の剣があります。
私たちの周囲には救われなければならない魂が大勢います。
まず、魂の救いを信じて祈りましょう。その祈りがいつ、どのように聞かれるのか私たちにはわかりません。しかし、神の前に祈りは届いています。
私たちは御言葉を握りしめ、信仰をもって待ち望むのです。
私たちはコロナ禍という、今まで体験したことのない時代に生きています。感染者をとどめることは難しいし、コロナの危機の中の毎日を過ごすしかありません。
そのような時代だからこそ、私たちは御言葉を心に蓄えて、御言葉によって生きる者であることを覚えなくてはなりません。
また、このような時だからこそ、福音を伝えていましょう。
 私たちの内におられる聖霊は、私たちが御言葉を喜ぶ時、力に満たしてくださいます。
私たちが誰かに御言葉を語る時、聖霊ご自身が先立ち、私たちを用いてくださいます。
今こそ、御言葉をしっかりと心に蓄え、御言葉によって生かされ、私たち一人一人が主の福音のために用いられる器であることを覚えて、主イエスを伝えて参りましょう。

今週のみことば
「人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
 マタイによる福音書4章4節


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