阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年9月11日
「勝利の信仰」
Tヨハネの手紙5章3-5節

 9月に入り、朝夕だいぶ涼しくなりました。夏の疲れが出るころです。健康に留意しながら、また、コロナ感染に注意しながら過ごしましょう。
今日も生ける救い主を見上げて礼拝をおささげ致しましょう。

私たちは、それぞれの時に主イエスを救い主として心に受け入れ、罪を赦されて救われました。
お一人一人が救いの証しを持っておられます。主イエスを信じ、救われて、御手に守られて、今日まで来ることができました。ある時には手を引かれ、ある時には背負われて、今日まで来ることができました。
主イエスを信じる者は、主を愛します。
主を愛するとは、口先だけではなく、神の掟、すなわち御言葉に従う生き方です。
御言葉を守ることは難しいのでしょうか。「神の掟は難しいものではありません。」(Tヨハネ5:3)と教えています。
神が教えておられる大切なことは、神を愛することです。
そして、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(Tヨハネ4:20−21)とあります。
神を愛し、人を愛し、神と共に歩み続ける人は幸いです。
しかし、人はもともと罪深く自己中心で、なかなか人を愛し、受け入れることができません。
受け入れないどころか、憎しみ、否定、争い、中傷などが絶えないのです。無関心ということもあります。罪の姿です。
人はどのように造り変えられるのでしょうか。救い主を信じ、その十字架の愛を知ったときに変えられるのです。
自分のために神の独り子が十字架で死んでくださった。これほどの愛が注がれました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
良く知られている御言葉です。世を愛されたとは、私たち一人一人を愛されたということです。
世という言葉を自分の名に置き換えると、神がどれほど私を愛しておられるかがわかります。
私たちは神に愛されているのです。救い主を信じ、その愛を知ったとき、人は変えられます。
救われるとは、主イエスの十字架の贖いにより罪許され、義とされ、新しい命に生まれることです。新生して永遠の命をいただいた者は、世に打ち勝つのです。
使徒パウロは、若いころ厳格なファリサイ派で、キリスト者をひどく迫害する者でした。それが神の御心と固く信じていたからです。
キリスト者を捕縛するために、ダマスコへ大変な勢いで出かけました。
パウロは当時の最高の教育を受けていましたし、教養もあったのですが、神の愛は知りませんでした。
そのようなパウロに、復活の主イエスは現れてくださいました。パウロを神の福音の使徒としてお召しになりました。
パウロは復活の主に出会い、天からの光に照らされて倒れてしまい、人に手を引かれてダマスコへ入りました。三日間食べることもせずに、祈り続けました。
やがて、弟子のアナニアが遣わされてパウロの為に祈り、目が見えるようになりました。パウロは主イエスを信じて新しく創造されたのです。
心の目が開かれ、悔い改めて十字架の愛を知り、愛に満たされました。
ただちに洗礼を受け、元気になり、ダマスコで主イエスを宣べ伝え始めました。迫害する者から宣教する者に変えられました。
キリスト者を迫害し、エルサレムへ連行するために来たはずのパウロは、救い主を宣教する者になりました。
主イエスの十字架によって表された、神の愛を知ったのです。
パウロは使徒として最後まで宣教のために用いられ、「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(Uテモテ4:7−8)と勝利の宣言をしています。
宣教は戦いの連続でしたが、その戦いを戦い抜き、主の与えてくださる義の冠を待つばかりと凱歌を挙げています。
義の栄冠は、パウロだけではなく、主イエスを信じ従う者に備えられていることも、記されています。
 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」(Tヨハネ5:4)
と約束されています。
私たちが救い主によって新しくされた者ならば、かならず世に打ち勝つのです。
勝利を約束された者の歩みは、主イエスと共にある信仰の歩みです。
しっかりと主イエスに結び付く歩みです。主に結びついているなら、主イエスの命に満たされ、世に打ち勝つのです。
主イエスの前に、自分の信仰を省み、心を探っていただくと、主の御心に反することや、主に喜ばれない罪をが教えられ、信じる者の内におられる聖霊は悔い改めに導いて下さいます。
主は悔いた砕けた魂を、喜んでくださいます。
主イエスの十字架の血汐はどんな罪をも清めてくださいます。
罪を悔い改め、清められるとき、神との交わりは回復し、自由に祈ることができます。
主イエスに救われ、神の子とされ永遠の命を持つ者に委ねられていることは何でしょうか。
それは、魂の救いを祈り、キリストを伝えることです。
救い主を紹介できるのは、救いを受けた者だけです。救われた者だけがキリストを伝えることができます。
この世には多くの宗教があります。人を滅ぼすような宗教があります。
私たちは、主イエスの御言葉を思い返すことができます。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。」(ヨハネ10:10−12)
罪深い世であり、コロナが蔓延するような今だからこそ、私たちは福音、真の救いを語らなければならないのです。
私たちの周囲にも疲れ果て、苦しんでいる人々がいます。
パウロの許にアナニアが遣わされたように、主は私たち一人一人を御心の所に遣わされるに違いありません。
私たちは既に主にあって信仰の勝利を得た者ですから、恐れる必要はありません。聖霊が共におられて、助け、導いて勝利に勝利を体験するのです。
主イエスが十字架で死なれた時、アリマタヤ出身のヨセフはピラトに主イエスの遺体の引き取りを依頼し、赦されたので主を新しい墓に葬りました。アリマタヤのヨセフはファリサイ派の議員であり、有力者でした。ヨセフは、すでに主を信じ、主の弟子でした。神の国を待ち望んでいましたが、自分の立場上、弟子であることを公にすることはできませんでした。
しかし、主の十字架の出来事を目の当たりにして、遺体を引き取り、埋葬することができました。ヨセフが主の弟子であることが、誰の目にも明らかにされ、証しされました。
ヨセフは主に対する愛を表しました。ファリサイ派や世の目をはばかるのではなく、主に対する愛を表し信仰を公に表しました。
「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(Tヨハネ5:5)
イエスを救い主、神の子と信じる者は、信仰により勝利の人生であることを感謝し、この素晴らしい救いを語り続けましょう。


今週のみことば
「あなたがたには世で苦難がある。
 しかし、勇気を出しなさい。
 わたしは既に世に勝っている。」
 ヨハネによる福音書16章33節



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