阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年9月18日
召天者合同記念礼拝
「わたしは復活、命」
ヨハネによる福音書11章25-27節

 きょうは、先に天に召された、愛する兄姉を記念して、礼拝をささげられることを心より感謝します。
私たちは、この世に生を受けて、今日まで守られて生きてきました。日々、数えきれない神の恵みをいただいて、歩んでくることができました。
主イエスを救い主として信じた者には、すばらしい恵みと祝福が約束されています。
主イエスは、御自分と私たちの関係を、良い羊飼いと羊にたとえておられます。良い羊飼いは羊を守り、養い、命を与えます。良い羊飼いは羊の為に命を捨ててくださいます。
すばらしい羊飼いが私たち一人一人の先頭にたって導かれているのです。これほど安心なことはありません。
主イエスが地上でのお働きを進めておられる時、しばしばベタニアのマルタの家にお泊りになりました。マルタ、マリア、ラザロの家です。 ベタニアはエルサレムから、15スタディオンの所にありました。
およそ3キロメートルの距離で、オリブ山のふもとにありました。
主イエスはこの3人を愛され、また、3人も深く主イエスを愛していました。
ある時、ラザロが病気になり、マルタとマリアは主イエスの許へ使いを出して、「主よ、あなたの愛している者が病気なのです」(ヨハネ11:3)と、伝えさせました。
主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネ11:4)と言われました。そして、なかなか出発されずに、二日間同じところに滞在されたままでした。
そして、弟子たちに、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(ヨハネ11:14,15)と言われました。
ラザロは既に死んでから4日も経ち、墓に葬られていました。
マルタはイエスが来られたと聞いて、迎えに行きました。マリアは家の中で座っていました。マルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と訴えました。
そして、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(11:22)と続けました。
主が、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。
マルタは主を信じる者は、やがて主の日に復活することは信じていました。
すると主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)と言われたのです。
マルタは、主イエスが救い主、メシアであることを信じていると告白しました。
主イエスは、ご自身が復活であり命そのものであると教えられたのです。主イエスは私たちの復活、命としてご自身をささげてくださるお方です。
主イエスは、弟子たちと最後の食事をされた時、大祭司の祈りと呼ばれている祈りを祈られました。その祈りの中に、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:2,3)とあります。
また、ヨハネの手紙Tでは、「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(Tヨハネ5:11−13)と」教えています。
主イエスがベタニアに来るのを二日も遅らせたのは、神の栄光の為であり、主イエスこそが復活であり、命であることを示すため、また、信じる者が永遠の命を持つことを深く知り、信じるためであることを覚えたいと思います。
人はこの世に生を受け、与えられた生涯を歩み通し、やがて肉体の死を迎えます。しかし、復活と命である救い主と結ばれている者は、祝福と命に満ち溢れた生涯を送ることができます。
困難や苦しみはあります。しかし、主イエスが共におられるのです。命を与え、支え、養い、守り続けてくださる方が共におられます。
詩編の作者は、「主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す。死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を伝えよう」(詩編118:14−17)と高らかに賛美の声を上げています。強い御手で支えてくださいます。
主はマルタとの会話の後、マリアとも言葉を交わしました。
マリアもマルタと同じように、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:32)と、主にひれ伏して言いました。
マリアも一緒にいた村の人々も涙を流して悲しんでいました。主は心に憤りを覚えられ、涙を流されました。
イエスはラザロの墓に来られました。墓の入り口をふさいでいる石を取りのけるよう命じられました。墓は横穴式で、入り口は石でふたをしてあったのです。
マルタは、死んでから4日もたっているので、もうにおいますと言ったのですが、主は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハネ11:40)と言われました。
イエスは父なる神に、「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるため」(ヨハネ11:42)と祈られました。
そして、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれたのです。
すると、ラザロは葬られた時の布で手足を蒔かれ、顔に覆いをしたまま墓から出てきました。主は人々にほどいてやりなさいと言われました。
ラザロは復活しました。その後、主イエスが過ぎ越しの祭りの六日前にベタニアへ行かれた時、マルタの家で食事をされました。マルタはいつものように給仕をし、ラザロも食卓に連なっていました。マリアは高価で純粋な香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐいました。主の葬りの準備を知らずにしたのです。家の中は香油の香りでいっぱいになったとあります。
ラザロの復活は、神の栄光が現れるためであり、イエスが神の子、メシアであることを示すためでした。
今日は召された方々の記念礼拝ですが、召されてからも、今生きているときも、私たちは復活の信仰を持っています。
主イエスを信じた者は、生きている今、永遠の命、復活の命で生かされています。
主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25,26)と死に対する勝利を宣言されました。
主イエスを信じる者は生きていても、天に召されても、復活の命で生かされているのです。
やがて主の日に私たちは主にお会いし、また、懐かしい兄姉にお会いするでしょう。その時までしっかりと信仰によって歩みたいと思います。
私たちは、永遠の命に生かされ、復活の希望に生かされています。
生きていても召されても主イエスと共にあることを改めて感謝し、主の栄光を現わしながら、進んでいきましょう。

今週のみことば
「わたしは復活であり、命である。
 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
 ヨハネによる福音書11章25節



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