阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年9月25日
「私を愛してくださる神」
Tヨハネの手紙4章7-11節

 幸いな礼拝の時が与えられて感謝します。日曜日に私たちの神を礼拝することは、信仰と生活の基本であることを覚えたいと思います。
今日も臨在の中に一つとされて、礼拝をささげましょう。

私たちは、主イエスを信じて救われ、永遠の命をいただくことができました。
私たちは神の言葉で生かされています。日々の歩みの中で様々なことに迷うとき、御言葉は行くべき道を指し示し、勇気と力に満たして下さいます。
御言葉は、神を愛し、人を愛することを教えています。
ローマの信徒への手紙でも、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(ローマ12:10)
と教えています。
聖書が教える愛は、アガペーの愛です。神は無限に、見返りを求めない無償の愛で私たちを愛してくださいます。
御言葉は、「神は愛だからです」(Tヨハネ4:8)と教えています。
神の愛は御子キリストの十字架であらわされました。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(Tヨハネ)4:9)とあります。
私たちは、主イエスを信じる以前も、確かに体は生きていました。
しかし、魂はどうだったでしょうか。
人はなにかにつけ心に不安を持っています。明日のことを心配しながら今日を生きることがあります。
命に対する恐れも持っています。
生活の中の様々なことに迷い、苦しむことがあります、
心に満たされない思いを抱きながら、生きている人も多いのではないでしょうか。
不安と恐れの中にある人に、神はメッセージを与え続けておられます。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」(イザヤ43:1−3)と語りかけてくださいます。
ヤコブもイスラエルも神に選ばれた神の民を指します。私たちも神に愛され、神に属し、霊のイスラエルとされているのです。
神は、私たち一人一人に、このように全能の御手で守られることを語りかけて下さるのです。神が私たちを愛してくださるからです。
神は私たちを創造してくださいました。そして、まだ生まれる以前から私たちの姿を見ておられるのです。
神は人を愛し、御自分の愛を表されました。独り子キリストを世にお遣わしになり、全世界の罪の贖いとして十字架に架けてくださいました。
人は罪を持ってこの世に生まれてきます。「原罪」とよばれる罪です。
それは、アダムとエバがエデンの園で、神に背いたときから人に入り込んだ罪です。罪の為に人は肉の体も霊も死ぬ者になりました。
罪ある人は、生まれながらに自己中心であり、愛のない者でした。
自分の欲の為に人を押しのけるような者でした。悲しいことに自分の罪の姿には気が付きません。
自分は正しい者であり、他人は不義の者として蔑むような高慢な心を持つ者でした。
神が救いの手を差しだされても、その手を振り払うような者でした。
主イエスは、ファリサイ派と徴税人の祈りの姿を通して、たとえで教えておられます。自分は正しい者だとうぬぼれていたファリサイ人と、罪人として蔑まれ、世間からはつまはじきされていた徴税人の祈りです。
心が高慢であると、人を愛することはできません。
主イエスは、自分が正しい人間だとうぬぼれて他人を見下していた人々に、たとえでお教えになりました。
二人の人が祈り為に神殿に上って行きました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。
ファリサイ派とは、「分離した者」という意味で、律法を守らない人たちとは分離した者という意味です。
自分たちが厳格に律法を守るのは良いのですが、様々な規定を加えて人々に守るよう教え、守ることのできない人たちを裁き、軽蔑していました。神の御思いと愛からは遠いものになっていました。
一方徴税人は、ローマ帝国に税を納めるために、ユダヤ人から税金を取りたてるのが仕事でした。ユダヤ人からは罪人として蔑まれ、同胞として受け入れられませんでした。
ファリサイ派の人は、堂々と胸を張り、立って心の中で祈りました。
神様の前でも心を低くすることはありません。自分がどんなに正しい人間で、神の為に良い業をしていることかを主張しました。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11)と心の中で祈りました。
自分を他の人や、徴税人と比べて、どんなに正しい人であるか主張しました。
愛はひとかけらもありませんでした。
一方徴税人は、遠くに立ち、目を上げることもせず、自分の罪を悲しんで胸を打ち叩き、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と祈りました。
罪許され、義とされて帰ったのは徴税人でした。
主イエスは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)と、教えられたのです。
ファリサイ派の人は、どれほど自分が高慢なのかなど、全く理解していませんでした。神の前に出ても、人を蔑み自分の行為をほめたたえたのです。高慢の罪はそのままです。祈りにもならない祈りをして、祈ったつもりでした。
徴税人は、自分が徴税人だという事より、自分自身の中に罪があることがわかっていました。自分の中に、自分を差別し、蔑む人々に対する憎しみがあることがわかりました。
自分を使っているローマの人々に対する苦い思いもありました。
自分は何も悪いことはないという自己義もありました。
自分の心には神に喜ばれない罪があるので、それを悲しみ、神の前に祈ったのです。
自分のような者の祈りが届くかどうかわからず、うめくように声を振り絞りました。
神は、悔いた砕けた心を重んじられ、受けいれてくださいます。
赦されて家に帰ったこの徴税人はどれほど嬉しかったことでしょうか。この時から、神に祈り、神に頼ることのできる日々を送れるように
なりました。罪許され義とされた者は、神の愛を受けた者です。
神が独り子をこの世に下さったのは、神の愛を受け入れるためでした。
私たちは神の愛を知りませんでしたが、神は私たちを愛して、罪を償ういけにえとしてイエス・キリストを下さったのです。
計り知れない神の愛を受けて、私たちは生かされています。
神の愛に満たされた者は、心低くされ神の愛によって人を愛するようになります。神に与えられている人生は、神を愛し、人を愛するという目標の人生です。
独り子を遣わされた神の愛ははかり知ることができません。その計り知れない神の愛に生かされていることを覚えて感謝をささげます。
互いに愛し合うことが御心であることを覚え、神の御心のように日々を送り、神の栄光を現わしてまいりましょう。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:10)
この御言葉をしっかりと心に留めて、神の愛に生きる者でありましょう。

今週のみことば
「愛する者たち、神がこのように
 わたしたちを愛されたのですから、
 わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
Tヨハネの手紙4章11節




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