阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年10月2日
「まことの光・キリスト」
ヨハネによる福音書8章12節

 天の父を崇めます。日曜ごとに教会に集い、礼拝をささげられる特権と恵みを覚え、感謝をささげます。
先の一週間も守られ、元気で過ごせたことを感謝します。
すっかり秋を感じるようになりました。美しい紅葉の時期も、もうすぐです。神の創造の御業を崇めます。

主イエスは、ユダヤの三大祭りである仮庵の祭りのために、エルサレムへ上られました。
ファリサイ派たちが主イエスを捕らえようとしていましたが、まだ主の時ではなかったので、だれも捕らえることはできませんでした。
主イエスは、祭りの終わりの最も盛大な日に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)と、大声で言われました。
祭りの最終日に、祭司たちは美しい祭服をまとい、シロアムの池から水を汲み、祭壇にささげました。
まさにその時、主は大きな声で叫ばれたのです。
イザヤ書12章に、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。」
(イザヤ12:2,3)
とある御言葉を主は引用されたのです。
魂に飢え渇きを持つ者は、救いを与える主イエスの許に来て、主を信じなさいと招き、主はその人の魂を生きている水、すなわち聖霊によって潤され、命に満たされ、溢れ流れると教えられました。
主イエスはまた、翌日朝早く神殿に入られました。民衆を教えておられるとそこへ姦淫の場で捕らえられた女性が連れて来られました。
ファリサイ派は、主を試そうとしましたが、主が、「罪を犯したことのない者がまず石をなげるよう」にと言われると、年長者から始まって皆その場を去って行き、誰もいなくなりましたも。。
主はこの婦人を赦し、「もう罪を犯さない様に」と言われて家に帰されました。
その後、主はご自分が世の光であることを宣言されました。
「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(ヨハネ8:12)
「世」という言葉は、ギリシャ語で「コスモス」という言葉が使われています。神がお造りになったすべてのものを指す言葉です。
聖書は、世は闇であることを教えています。
確かに朝になれば太陽が世を照らして、人は光の中に生きてはいます。
主イエスが教えられたのは、人は罪の闇の中を歩んでいるということなのです。
世界に争いが絶えないのはなぜでしょうか。人の欲が強く働き、他人を省みず、人の物を強奪するからです。
自分さえ良ければ他はどうなっても構わないという心が人を傷つけ、殺します。人の心の中にある他人を憎む思いが根にあります。国際問題も、身近な個人的な争いも根本は一緒で、罪の闇が原因です。真の神を愛し、神に従い、人を愛するなら争いはありません。
人の力ではなかなか完全に解決できない問題もあります。この数年、世界はコロナウイルスに翻弄されてきました。
感染力があまりにも強く、すぐ感染してしまい、軽症で済めばよいのですが、高齢者はコロナをきっかけに持病が悪化してしまう人々も多く、いまだに毎日死亡者の数が報道されています。
このごろは報道されなくなりましたが、キリスト教会でのクラスターも発生しています。
現在、感染者数は減少傾向にありますが、まだまだ気を緩める時ではありません。
いつだれが感染してもおかしくないのです。これもまた闇です。
闇は目がきかず、どこに危険があるのか、どこを歩めば安全なのかもわかりません。
主イエスは、自分は分かっている、見えていると主張したファリサイ派の人々に、「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたの罪がある」(ヨハネ9:41口語訳)と言われました。
人は、とかく自分を正しいと主張したくなる者です。この御言葉はしっかりと心に留めておき、思い巡らすべき御言葉の一つです。
主イエスは、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。
主に従う者は命の光を持つと言われたのです、
私たちは主イエスを救い主として受け入れ信じています。主を信じた者は主イエスに従うのです。
主イエスの十字架の贖いにより、罪が許されたことを知っている者は、主を深く愛します。自分が罪多い者であり、主がその罪の身代わりとして、十字架で命を捨ててくださったことを知っている者は主を愛します。
罪が分からないと、主の十字架のありがたさは、なかなか理解できません。
聖霊のお働きの中に、人の心を明らかにするお働きがあります。聖霊は、今まで閉じ込めていた思いを明らかにされます。
主イエスを信じて心を明け渡すと、主のまことの光が心の中に満ち溢れます。
罪を罪とも思わなかったことについて悔い改め、新しい心を持って生きることができます。
心の中にあった恐れ、憎しみ、迷い、苦しみが聖霊の光に照らされ、十字架の血汐によって清められ、平安と喜びに満ち溢れます。
主イエスに救われた者の証しは、命と平安、喜びです。
主イエスは、「わたしは世の光」と、宣言されました。
ヨハネによる福音書1章にも、主イエスがまことの光であることが記されています。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:9)とあって、その光、(主イエス)はまことの光として世に来られたことを証言しています。
私たちは、主イエスの光を持つ者であり、光の子として歩んでいます。今年の聖句は、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)という御言葉です。
愛する兄姉も、この御言葉をいただき、日ごとに光の子として光を輝かせることができるようにと、祈っておられると思います。
大切なことは、「主に結ばれている」ということです。
枝が幹につながっていなければ、絶対に実を結ぶことはありません。命につながっていないからです。幹につながっていれば、幹から命が流れてきて生かされます。豊かな実を期待できます。
幹と同じ命に繋がっているからです。
そのように主イエスに結ばれている者は、光である主イエスの光をもちます。イエスの光で輝きます。
主イエスとしっかりと結び合わされている人は、道に迷いません。主と共にあり、主のまことの光の中を行くからです。
困難な道であっても、主イエスは守り、導き足元を照らし、無事に目的地まで導かれます。
私たちの目的地は天の御国です。私たちの本籍のある、慕わしい国まで導かれます。
主イエスは、日ごとに「わたしに従いなさい」と、語りかけて下さいます。
私たちは主イエスの光の中に従います。主は手をとって導かれるのです。
このようにすばらしい光と命を与えられて、心から賛美と感謝をささげたいと思います。
この世にある限り、光の子として光の中を歩み、主イエスという、まことの光を掲げていきましょう。


今週のみことば
「光はやみの中に輝いている。
 そして、やみはこれに勝たなかった。」
ヨハネによる福音書1章5節(口語訳)



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