阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年10月9日
「仕える恵み」
マタイによる福音書20章26-28節

 10月第二週の礼拝をささげられる恵みに感謝します。
朝夕だいぶ涼しくなりました。季節の変わり目に、体調を崩さないよう気を付けたいと思います。
主イエスは今日も私たちと共におられ、溢れるばかりの祝福を注いで下さいます。心を開き、主を仰ぎましょう。
魂の糧である、神の御言葉が豊かに与えられていることにも感謝します。

主イエスは、御自分がこの世に来られた目的を良くご存じでした。
世の光として来られ、すべての人がまことの光を信じて受け入れ、救われるために来られました。人が救われるためには、どうしても主イエスの十字架による罪の贖いが必要でした。
主イエスは十字架に向かって真っすぐに進んでいかれました。
主イエスは、エルサレムへ向かって行く途中で、御自分が十字架の苦難を受けて死なれること、そして三日目に復活されることを弟子たちに予告なさいました。
主はご自分の十字架の死と復活を3度予告されていますが、そのたびに弟子たちはあってはならない事と、主を諫めたり、非常に悲しんだことが記されています。主の話されていることを、本当に理解することができませんでした。
いよいよ十字架の為にエルサレムへ上って行く途中、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親が主の許に来てひれ伏しました。
 主イエスが王座に着かれる時、息子の一人を右の座に、もう一人の息子を左の座に座るようにおっしゃってくださいとお願いしました。
かなり強引な願いです。しかも、主イエスの方からそう言ってほしいと願ったのです。
主は、あなたたちは自分が何を願っているのか分かっていないと言われて、「この、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(マタイ20:22)と言われました。
二人の弟子、ヤコブとヨハネは「できます」と答えました。
この二人は、主が何を言われているのか分からずに返事をしました。
なぜなら、「わたしが飲もうとしている杯」とは、十字架の死を意味しているからです。主イエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」(マタイ20:23)と言われました。
後に彼らは主の福音の宣教者として働き、兄弟の一人ヤコブは使徒の中で最初の殉教者となりました。(参・使徒12:1,2)ヨハネは迫害の後パトモスに流されました。
ところで、この様子を知った他の十人の弟子たちの反応はどうだったのでしょうか。
非常に怒ったのです。勝手な願いをしたというより、自分たちも心の内ではその願いを持っていて、なかなか言い出すことができませんでした。それなのに、ヤコブとヨハネに先に言われたことに憤りました。
そこで、主イエスは一同を呼び寄せて言われました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」(マタイ20:25)と教えられました。
「支配者」、「偉い人」とは、当時のイスラエルを支配していたローマの皇帝や、権力者を指します。ローマ帝国の支配を受けていたユダヤでは、ローマの皇帝の威光に絶対に従わなければなりませんでした。
厳しい税の取り立てに喘ぎ、ローマ兵の横暴にも耐えなければなりませんでした。ローマは必要とすれは、ユダヤから労力、食料、馬など何でも調達しました。
ローマの兵士に荷を負わされると、誰でも1マイルその荷を運ばなければなりません。
ユダヤにとって、異邦人に支配されることは大変な屈辱でした。
主イエスは、「偉くなりたい、偉い人になりたい」と思っていた弟子たちに、「あなたがたの間では、そうであってはならない」(マタイ20:26)と教えてくださいました。
主イエスが、あなたがたの間ではそうであってはならないと言われた、あなたがたの間とは、どのような間柄を指すのでしょうか。
弟子たちは主イエスを信じて従った者たちです。直接には弟子たちに対して、弟子の間ではそうであってはならない、という教えになります。
では、私たちは今どのような身分をいただいているのでしょうか。
私たちも主イエスを信じた時から、主の弟子となりました。主イエスに教えられながら、主エスと共に歩んでいます。
また、主イエスの十字架により罪を赦され、主イエスの命に生かされています。神の子とされ、真の神を「アバ、父」とお呼びして近づくことができます。
祈りによって神と交わり、数えきれない恵みの中に生かされています。
一人一人の手に主イエスの福音が委ねられています。救われて多くの恵みと特権の中にいる自分自身に、驚くことはないでしょうか。
主イエスは、私たちにも「あなたがたの間ではそうであってはならない」と言われています。
しかも、クリスチャン同士の間だけではなく、私たちがかかわりを持つ人々すべてに対して、「仕える者」になる様にと、教えておられるのです。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20:26:27)
主はそのように教えてくださいました。
僕とはギリシャ語でドゥーロスと言い、奴隷と訳すことができます。
主の母となったマリアは、御使いガブリエルによって受胎告知を受けた時、戸惑いながらも「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)と応答しました。主のはしためとして、全人類の救いのために来られる方の、母になることを受け入れました。
僕として、神と人に仕えていくことによって注がれる神の祝福があるのです。
主イエスは、最後の食事の席で、上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをつけ、たらいに水を汲んで、弟子たち一人一人の足を洗い、手ぬぐいで拭きました。
人がお客様を家に迎えた時、その家の僕がお客様の足を洗い、ぬぐいます。ほこりや泥によって汚れた足を洗うのは礼儀でしたが、主人の役目ではありません。
主が弟子の足を洗い始め、ペトロの番になったとき、ペトロはあなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と驚いて言いました。
主イエスが弟子になさることではなかったからです。
しかし、主は、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(ヨハネ13:14、15)と教えられました。
足を洗うには身をかがめなくてはなりません。主は弟子たちが本当に足を洗い合うのではなく、互いに僕の姿をとって身を低くして仕え合うことを、模範を示されて、教えられたのです。
主イエスは、仕えられるためではなく、仕えるためにこの世に来られ、また、罪の贖いの代価を十字架で支払って下さいました。
多くの人の身代金としてご自分の命をささげてくださったのです。罪から解放するための代価は主イエスの命でした。
このように、私たちは罪から解放され、自由にされました。その自由は神と人の為に仕えるためであることを覚えたいと思います。
私たちが仕え合うとき、私たちを通して主の栄光は輝きます。
模範となってくださった主イエスを仰ぎ、日々の歩みの中で「仕える」恵みに生かされて行きましょう。

今週のみことば
「あなたがたはそれぞれ、
 賜物を授かっているのですから、
 神のさまざまな恵みの良い管理者として、
 その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
 Tペトロの手紙4章10節


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