阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年10月16日
「心を合わせ声をそろえて」
ローマの信徒への手紙15章1-6節

 秋の心地よい季節を迎えました。天の父は私たちに四季を与えて、それぞれの季節を楽しませてくださいます。創造の御業を賛美しましょう。
天の父は、私たちに御言葉を糧として豊かに与え、私たちを神の栄光の為に用いてくださることを感謝します。

神の言葉、神のメッセージが、私たちの信仰と生活を導いて下さいます。
 「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」。(詩篇119:105)とあるように、いつも私たちの歩む道を照らしてくださいます。朝毎に、夕毎に御言葉を待ち望みましょう。
聖書は、私たちに、神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することを第一の事として教えています。
主イエスの十字架の贖いによって救われた者は、自分のために生きるのではなく、神と人に仕えて生きることを知っています。
神の栄光を現わすという人生の目的に生かされます。
今日も御言葉から神の御心を探りましょう。
ローマの信徒への手紙15章1節に、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり」とあります。ここだけを読むと、確かにパウロは信仰の強い人であり、この時代の教会も迫害に耐え、信仰をしっかりと守っている強い人の集まりだろう、それに比べると私は強いとは決して言えないと思ってしまうのではないでしょうか。
迷いながら、弱さを認めながら、それでも主イエスの愛によって立たされ、支えられて今日まで来ることができたのです。
強い者とは、主イエスの十字架の贖いをしっかりと信じて、その恵みの中に主をより頼んでいる者と考えられます。
もし、自分は信仰の強い者だと思っているなら、実は肉の力により頼んでいる弱い者と言えるでしょう。
いつも、主キリストに結び付き、キリストの命に生かされているなら、主にあって強い者であることをしっかりと覚えたいと思います。
聖書は、いつも自分のことより隣人のことを考えることを教えています。「強くない者の弱さを担うべきである」(15:1)とあります。
担うとは、背負うことです。弱っている人に手を差し伸べ、その持っている弱さを分かち合い、背負うなら、重荷は半分になります。
荷は重いかもしれません。しかし、もう一人共に荷を負って下さる方がおられます。主イエスが共に荷を追って下さるのです。心強く感謝以外にありません。さらに、主イエスは、その荷を委ねよと言われていることを忘れてはなりません。
「あなたの重荷を主に委ねよ 主はあなたを支えてくださる。」(詩篇55:23)。主に委ねながら重荷を分かち合い、信仰の歩みを続けられることは、恵みなのです。
さらに、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」(ローマ15:2)と教えています。
善を行うとは、その人の本当の益になることを提供することです。
人にとって大切なことは、主イエスの救いと恵みの中に生かされることです。主イエスは私たち一人一人の罪の贖いの為に十字架に架り、死んで、三日目に甦られました。
私たちが主イエスの命に生かされていることを喜び、証しし、主イエスを賛美すると、隣人の魂にも喜びを与えます。お互いがその祝福の中に霊的な成長を遂げていくことができます。
人は救い主を心の中心にお迎えすると、聖霊が働かれて、御言葉の教えが喜びとなります。
もし、人が自分を満足させることだけを追い求めても、決して満足は得られません。いつも渇いた心で満たしを求めますが、満たされることがないのです。
人は神が創造されたので、真の神に立ち帰り、神の言葉によってはじめて生きることができます。そして、魂が満たされることを知るのです。
主イエスはご自分の満足をお求めにはなりませんでした。3節には、
詩篇69編の御言葉が引用されています。
「あなたを嘲る者の嘲りが わたしの上にふりかかっています。」(詩篇69:10)。
神を嘲る者の嘲り(あざけり)が主イエスの上にふりかかる、これは、嘲られ、ののしられ、辱めを受けられた、十字架の主イエスを預言した御言葉です。 主イエスを嘲ったのは、いったい誰でしょうか。それは、救われる前の私たちではないでしょうか。主はそのような罪ある者のために十字架で死んでくださいました。
弱い私たちを主イエスが担って下さるので、私たちは生きることができます。
「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる主を」。(詩篇68:20)。とある通りです。
私たちは聖書の御言葉から何をいただいているのでしょうか。
「忍耐と、慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」とあります。
御言葉は私たちに忍耐と慰めを教えています。自分を満足させるのではなく、隣人を喜ばせるには、忍耐がいります。
コリント第一の手紙13章は、愛の章と呼ばれている箇所です。愛について記されている中で、最初に「愛は忍耐強い」(Tコリント13:4)とあります。愛は忍耐強いのです。それは、人の愛ではなく神の愛、アガペーの愛です。忍耐は神の愛によるのです。そして忍耐だけではなく、慰めを受けます。この慰めという言葉は、「励まし」という言葉と同じです。忍耐と同時に励ましがあるのです。
もし、私たちが悩み、困惑し、行き詰りを覚えるような時、神は私たちに語りかけてくださいます。魂を慰め、新しい力を与え、励まして歩みを進ませてくださいます。希望を持ち続け、日々新しい力に満たされて信仰の歩みを続けることができます。
私たちは、どのような信仰を持っているのでしょうか。
神を愛し、隣人を愛し、隣人の益を祈り、実践できるなら幸いです。
15章5節に、神は忍耐と慰めの源の神とあります。
「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。(ローマ15:5−6)。
これは、パウロの祈りであり、私たちの祈りです。
主にあって、一つとなり、同じ思いを抱き、心を合わせ、声をそろえて神を賛美するようにとの祈りです。
聖霊によって一つとなり、天の父を礼拝する教会の姿が描かれています。神の教会の礼拝は、このように一つとされた礼拝です。
主イエスを信じた私たちの内には聖霊が宿っておられます。
聖霊は力と愛と慎みの霊であり、一致の霊です。
私たちの心に愛を満たして下さる聖い御霊です。神の御心に沿った信仰の歩みを続け、互いに励まし合い、重荷を担いながら進み行くことができるのです。
迫害者であったパウロは、クリスチャンを逮捕するために出かけたダマスコ途上で、復活された主イエスに召しだされ、使徒として生涯宣教に用いられました。パウロは強い光に照らされて目が見えなくなり、手を引かれてダマスコに入ることになりました。パウロは三日の間食べることも飲むこともせずに、祈り続けました。ダマスコ在住のアナニアという弟子がパウロの許に遣わされて、パウロに手を置いて祈ってくれました。「兄弟サウル」と呼びかけて祈ってくれたのです。ひどい迫害をしてきたパウロに、「兄弟」と呼びかけてくれました。愛による赦しです。
パウロは、聖霊に満たされ、目が開かれ、直ちに主イエスを宣べ伝えるようになりました。
神と人に仕え、自分の満足ではなく、人の救いの為に働く人に変えられました。自分は弱い者であっても、主の十字架によって強い者とされたことを知っていました。
私たちも主の十字架にで強くされ、心を合わせ声をそろえて神を礼拝し賛美する者とされたことを喜びとし、さらに主をほめたたえて参りましょう。

今週のみことば
「心を合わせ声をそろえて、
わたしたちの主イエス・キリストの神であり、
父である方をたたえさせてくださいますように。
ローマの信徒への手紙15章6節


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