阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年11月6日
「愛に訴える」
フィレモンへの手紙8-16節

 主イエスの恵みにより、きょうも礼拝をささげられることを感謝します。
11月に入りました。朝夕気温の変化があって、体調を崩しやすい時期です。お互いの健康のためにも祈り合いましょう。

きょうは、フィレモンの手紙から主の御心を探っていきたいと思います。
この短い手紙の差出人はパウロと、テモテで、宛先はフィレモンとその姉妹アフィア、アルキポ、そして、あなたの家にある教会へとあります。
この手紙を書いた時、パウロはエフェソの牢獄に捕らわれていました。フィレモンはコロサイで自分の家を教会としていたようです。
フィレモンの愛と信仰を伝え聞いていたパウロは、その愛によって大きな喜びと慰めを受けていました。
パウロは自分の現状を、「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている」(フィレモン:9)と記しています。
パウロは、自分で年老いていると言うような年齢になっているようですが、それでも宣教に励んでいました。キリスト・イエスの囚人とは、キリストを宣教したために捕らえられ、投獄されているという意味です。
投獄中、オネシモとかかわりを持ち、オネシモを「監禁中にもうけたわたしの子」と呼んでいます。
フィレモンは、「わたしたちの愛する協力者」(:1)とあるように、パウロの宣教によって救われ、パウロの協力者として宣教の為に働く人でした。ですから、パウロは、遠慮なく自分の願いを命令しても良い立場にありました。
しかし、パウロはそうではなく、愛に訴えてお願いするという姿勢を取りました。その願いとは、フィレモンの許から逃亡したオネシモを受け入れて欲しいという願いでした。
パウロに強いられてではなく自分の意思で、オネシモを受け入れて欲しいと願いました。
オネシモはフィレモンの家の奴隷でした。しかし、彼を奴隷ではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として受け入れて欲しいと願ったのです。
オネシモは主人の許から逃亡し、しかも、フィレモンに損害を与えていたとも考えられます。
ともあれ、オネシモはエフェソの牢獄にいたパウロの許に行き、そこでパウロの世話をしながら、主イエスを心に受け入れたのです。
パウロはこのままオネシモを手元に置いて仕えて欲しいという希望もありましたが、あえてフィレモンの許へ帰すことにしました。
パウロはオネシモについて「わたしの心であるオネシモ」とも言っています。パウロが自分の心として大切に思うオネシモを、パウロと思って受け入れて欲しいと頼みました。
オネシモとは、ギリシャ語で「役に立つ」という意味です。しかし、フィレモンの許から逃亡したオネシモは、役に立つ者ではありませんでした。それが、役に立つ者になったということは、奴隷としていろいろと主人の役に立つようになったということではありません。
オネシモが主イエスを信じる者となったことにより、同じ信仰を持つ兄弟として、キリストの愛によって結ばれて行くということです。
奴隷は主人の所有する財産でした。しかし奴隷ではなく、愛する兄弟になったことで、「役立つ」者という関係に変えられたのです。
しかし、パウロの願いはそう簡単ではありませんでした。なぜなら、そこに金銭的なことも絡んでいるからです。
オネシモは奴隷ですから、金銭で買われたと思われます。主イエスがユダに裏切られた時、ユダの手に祭司長たちから銀貨30枚が渡されました。当時の奴隷の価格であったと言われます。
主イエスは奴隷の値で売られたのです。
オネシモの金銭的な問題については、パウロが払うので、パウロの負債にしてほしいと記しました。しかも、手紙のほかの部分は口述筆記でしたが、この部分だけは、パウロが自筆で書いていると強調しました。
「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(:15)とも書かれています。
オネシモは逃亡中に悔い改めて主イエスを信じる者とされ、フィレモンの許に帰って福音のために良い働きをするようになると、パウロは確信していました。
フィレモンはオネシモを快くは思っていなかったでしょう。オネシモに対する不快感や、不信感も持っていたはずです。
もしも、オネシモが帰って来たとしても、信用できない僕としか評価できなかったはずです。
主イエスを信じる者は、どのような問題についても、まず祈ります。フィレモンも主の前に祈りました。祈る時、主は私たちに自分の姿を示してくださいます。
祈る時に、神は御心を示してくださいます。確信と平安に満たしてくださいます。
私たちも祈ることができます。祈りの中に答えを与えられ、信仰を持って歩み続けることができるのです。
祈る時に、救いの感謝が湧き上がります。かつては罪の奴隷であった者を、主イエスが十字架によって罪を贖って下さった。
贖うとは、代価を払って買い戻すということです。
罪は人を支配し、神の救いと栄光から遠ざけようとします。
私たちにも福音が届けられ、主イエスを救い主として心に信じ、受け入れることができました。
その時から、まことの光の中に入れられて、神の子とされ、神の愛の中に歩むことができる者とされました。
「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(ローマ6:17,18)。
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(ローマ6:22)。
フィレモンも自分の姿を思い起こし、罪から解放されている事、神に愛されていること、主イエスが自分の為に十字架に架り、その血汐をもって罪の贖いをなされたことを改めて覚えることができました。
主イエスの救いの尊さを思いかえしたのです。
オネシモは、主イエスを信じる信仰によって、新しく生まれ変わりました。
そうであるならば、パウロの願いを拒絶することはできません。なぜなら、それは神の御心であるからです。
フィレモンも悔い改めて、オネシモを迎えました。
オネシモはコロサイの教会や、さまざまな所で宣教の為に用いられるようになりました。
オネシモが逃亡しないでフィレモンの許にいたなら、そのように用いられることはありませんでした。有益な者という名でありながらも無益な者で終わったかもしれません。
すべてが神の御手の中で有益に変えられ、オネシモは宣教に生かされました。
コロサイの信徒への手紙4章9節にオネシモの名前が記されています。
「また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう」と記されています。(コロサイ4:9)。
オネシモは、忠実な愛する兄弟として、認められるものとなりました。福音の為に自由に用いられました。
人生の中での失敗や、間違いと思えるようなことをも神は益に変えられます。私たちも神の前に「役に立つ者」、「有益な者」とされていることを心に留め感謝し、なお励む者とされましょう。

今週のみことば
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、
 聖なる生活の実を結んでいます。
 行き着くところは、永遠の命です。」
 ローマの信徒への手紙6章22節



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