阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年11月13日
「子供のように」
マルコによる福音書10章13-16節

 11月第二週の日曜日を迎えています。きょうも主の前に集まり、御霊によって一つとされて、礼拝をささげることができました。
このすばらしい恵みを心から感謝します。
主イエスが小さな子供を祝福してくださったことは、マタイ、マルコ、ルカによる福音書に記録されています。
それは、短い記録ですが、どの福音書を読んでも心を打たれ、教えられる出来事でした。
人々が主イエスに手を置いて祈っていただくために、小さな子供を御許に連れてきました。ルカによる福音書には、「乳飲み子までも連れて来た」ことが記されています。
主イエスに子供を祝福してほしいという親の心が現れています。
ところが弟子たちは、この人たちを叱りました。忙しく働かれる主イエスを煩わせてはならないと思ったからです。
そして、弟子たちには、子供たちを軽んじる思いがありました。
当時のユダヤには、まだ律法を守ることのできない小さな子は救われないという考えがありました。
男子は13歳になると、律法を守ることのできる年齢に達したと見なされ、バルミツバという成人式が行われます。その後はシナゴクで聖書を朗読したり、暗誦するため、ラビという教師から聖書の教育を受けます。女子は12歳が成人式です。
律法を守ることができる年齢になったと見なされるのです。それ以前の子供たちは、一人前とは認められませんでした。
弟子たちは、主イエスの許に子供たちを連れて来た人たちを、叱ったのですが、主イエスはどうなさったのでしょうか。
「しかし、イエスはこれを見て憤り」(マルコ10:14)とあります。憤るとは、怒りよりも強い感情です」。
弟子たちの振る舞いに憤りを覚えられた主イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)と言われました」。
さらに、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)と、続けられました。
主イエスは、「子供のように神の国を受け入れる」という、大切なことを教えられました。
主は、神の国に入るために、子供になるようにと教えられたのではありません。
「子供のように神の国を受け入れる」ということを教えられたのです。
この時、主イエスの許には幼子だけではなく、乳飲み子も連れて来られていました。
物心もつかない赤ちゃんです。乳飲み子は、両親や周りの人々に世話をされなくては生きることができません。
両親は乳飲み子を愛し、行き届いた世話をして懸命に育み(はぐくみ)ます。
乳飲み子には何の力もありませんが、自分を愛し、育んでくれる父や母に全面的な信頼を寄せます。
私たちも幼子が母親に抱かれ、自分自身を委ねて、安心しきっている姿を見ることができます。
幼子のようになるとは、神様に対してすべてを委ねきり、その愛に生かされていくということなのです。
人は、一歩先には何が待っているのか分からない毎日を送っています。
不安の材料を抱えていることもあります。経済の不安、健康の不安、生活の不安など数え上げたらきりがありません。
人の目の前の不安は、命の不安につながるのです。
幼子はどうでしょうか。命の事で思い煩うことはありません。すべてを委ねきって生かされ、成長していきます。
私たちが幼子のように生かされるために、大切なことは何でしょうか。
まず、主イエスを心から信じることです。主は私たちを愛し、十字架で命を捨ててくださいました。主イエスの愛をしっかりと信じることです。
主イエスを信じる者は、主イエスの御言葉を信じます。
主は、命の事で、生活の事で思い悩むなと教えてくださいました。明日のことは思い煩わなくてよいとも教えてくださいました。
「自分の命のことで、何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。・・・あなたがたのうちだれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。・・・
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。・・・あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」
(マタイ6:25−34)
主イエスがお教えになっている、幼子のようになるということは、主がこのように教えておられることを信じて、日々を歩むことにつながります。
この世の歩みのための必要はすべて備えられるという信仰です。
さらに、主イエスは十字架に架り、命を捨ててくださいました。それは、私たちが罪に死に、永遠の命に生かされるためでした。
私たちは、今、永遠の命に生かされている者であることを受け入れ、忘れてはならないのです。
主イエスは罪ある者を愛し、探し出し、そのみ胸に抱いて下さいます。私たちは主に愛されているのです。その愛を決して忘れてはなりません。
詩編には、「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩篇27:10)という約束があります。あってはならないことですが、父母が子供を見捨てるようなことがあったとしても、主は決して見捨てないという、すばらしい約束です。
主イエスにすべてを委ねる時、平安と喜び、希望が湧き上がります。
私たちが年を重ねても、幼子のように主に抱かれ、愛され育まれていることを覚えようではありませんか。
主が子供を祝福してくださったすばらしい記録の後に、もう一つの出来事が記されています。
幼子のように主を信頼できなかった人の記録です。金持ちの青年が主の前に膝まずき、永遠の命を得るためには何をしたらよいかとお尋ねしました。主イエスは律法を守るようにと教えたのですが、この人は、それらは子供の時からみな守ってきたと答えました。主は彼を慈しんで、持っている物を売り払って貧しい人々に施すようにと言われました。
それから、主に従うよう促しました。
沢山の財産を持っていたこの人は、主イエスの言葉に気を落として、悲しみながら主の前を去って行きました。
主イエスはこの人の財産を取り上げようとしたのではありません。この人にとっては、財産が第一の信仰であり、よりどころであったことを指摘されたのです。それをまず悔い改めてから、主イエスに従うようにと示されたのです。
主イエスは、み許に連れて来られた幼子を一人一人抱き上げて、手を置いて祝福されました。
両親たちは、手を置いていただきたいと願ったのですが、主はそれ以上の事をして祝福してくださり、愛を示されました。
私たちも、今、改めて主の前に出て、幼子のように主を信頼し、すべてを委ねる信仰を確認したいと思います。
主は私たちの歩みを日々祝福してくださいます。そして、その祝福は永遠の命の祝福です。
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩篇23:6)
素晴らしい主イエスとその愛をほめたたえましょう。

今週のみことば
「はっきり言っておく。
 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
 決してそこに入ることはできない。」
 マルコによる福音書10章15節


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