阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年11月20日
「祈る時に」
使徒言行録12章1-5節/11-12節

 今朝も主の臨在の中に礼拝をささげましょう。すばらしい恵みに感謝します。主は常に私たちに御言葉をもって語りかけ、御心を示して下さるお方です。主を待ち望みましょう。

 さて、今日は使徒言行録12章から、教会の祈りの結果に心を留めたいと思います。
使徒言行録12章は、使徒ヤコブの殉教、ペトロの逮捕と投獄、天使による救出、ヘロデ王の急死と、様々な出来事が記されています。
使徒ヤコブは、ゼベダイの子で、ヨハネの兄弟です。ガリラヤ湖の漁師をしていた時、主イエスに召されて弟子となりました。ヤコブは初代教会が迫害される中、最初の殉教者となりました。
ヨハネを殉教に追いやったのは、ヘロデ王であったとあります。聖書にはヘロデという名の王が何人か出てきますが、このヘロデはヘロデ・アグリッパ1世といって、主イエスが誕生された時のヘロデ王の孫にあたる人でした。王といっても、当時はローマ帝国の属国でしたから、ローマ皇帝の下でユダヤを治めていたのです。
ヘロデの家系は、もともとユダヤの家系ではなくエドム人でした。純粋なユダヤ人ではなかったので、ユダヤ人の支持を得ようとして、ヤコブを捕らえて殉教させたのです。それがユダヤ人に喜ばれたので、今度はペトロを捕らえて、過越際の後、民衆の前に引き出して処刑しようと企み(たくらみ)ました。
ペトロは引き出される前夜、二本の鎖でつながれ、二人の兵士に挟まれて眠っていました。戸口には番兵が立っていて、脱獄などできるような状況にはありませんでした。
ペトロがそのような状況にあったとき、教会はどうしたでしょうか。
「教会では彼のために熱心な祈りがささげられていた」(使徒12:5)とあります。
マルコの母の家が教会として用いられていました。この家は、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降った家であり、主イエスの十字架直前の最後の食事をした家であるとも考えられています。
この家の教会に大勢の人々が集まり、熱心に祈っていたのです。
「そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」(使徒12:12)とあります。
教会の人々がヘロデ王のもとに行き、戦ってペトロを奪還することなどできません。
教会は熱心に祈ったのです。この熱心という言葉は、絶えることなく祈るという意味があります。祈りが絶えることなく続けられていました。
ペトロが捕らえられていた牢獄は、厳重に造られていました。第一、第二の衛兵所がありました。衛兵が詰めているところを抜け出すのは難しいでしょう。町に通じる門は鉄の門でした。当然鍵がかかっています。鍵を開けることができたとしても、戸を開ければ大きな音がして、衛兵が気づきます。この門を開けて外に出ることは難しいことでした。
ペトロは、明日処刑されるために引き出されるという状況にあっても、眠っていました。
ローマの信徒への手紙に、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:7,8)とあるように、ペトロは自分の命は主のものという信仰と、信頼の中に眠っていたのです。
主は、不思議な御業を起こされました。天使を遣わされたのです。
光が牢の中を照らしました。ペトロはそれでも眠っていたので、天使はペトロのわき腹をつついて起こしました。天使は矢継ぎ早に指示を出しました。「急いで起き上がりなさい」。すると、鎖が手から外れ落ちました。「帯を締め、履物をはき、上着を着てついてきなさい」と語り掛けました。ペトロは天使の言う通りにしましたが、現実の事のようには思われず、幻を見ているのだと思っていました。
二つの衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門がひとりでに開き、そこから出て通りを進むと、天使は急に離れていきました。
そこでペトロは我に返ったのです。これは幻ではなく、神が天使を遣わされて助けてくださったことに気が付きました。
ペトロは、自分が不思議な神の手により助け出されたことがわかると、マルコの母マリアの家に行きました。
大勢のクリスチャンが集まり、ペトロの為に祈りがささげられていました。
門をたたくとロデという女中さんが取次の為に出てきました。ペトロの声だと分ると、喜びのあまり門を開けることもしないまま家に駆け込み、ペトロが来ていることを皆に知らせました。
すると、集まっていた人々が、「あなたは気が変になっているのだ」と言いました。ロデが本当だと言うと、「それはペトロを守る天使だろう」と言いました。
ペトロはその間、門をたたき続けていました。やっと、門を開けるとペトロが立っていたので、「非常に驚いた」のです。
ペトロは皆に不思議な御業によって助け出されたことを知らせると、別の場所へ行きました。
教会での熱心な祈りは聞き届けられて、ペトロは助け出されました。
この出来事を通して、祈りながらの不信仰を考えることができます。
あれほど熱心に祈っているのに、すでに祈りが聞かれた時、信じられなかったのです。
ペトロは助け出されて、教会に来ているのに信じませんでした。ロデに「あなたは気が変になっている」とまで言いました。
集まり祈りつつも、この祈りが聞かれるかどうか信じ切れなかったのです。
重要で、難しいことのための祈りをする時、「この祈りは聞かれるかどうか」と、疑う心が湧き上がってしまいます。重要であればあるほど、不信仰な心が働くのです。
私たちはこの家の教会の祈りの姿から大切なことを学ぶことができます。
それは、神は不信仰であってもその祈りに答えてくださったということです。
祈りは、願い事をすることだけではありません。祈りはクリスチャンの霊の呼吸であり、神との会話です。
神は祈りを喜び、霊の交わりを喜ぶお方です。たとえ、私たちが不信仰でも、欠けた者であっても、神に近づき祈るなら、喜んでくださいます。
私たちは、現実が厳しく、希望を持つことができなくても、祈りの内に神ご自身を求めることに気が付き、神に希望を置くことに慰めをいただくことができます。
祈ることができるのは、教会の特権であり、その教会の肢体である私たち一人一人に与えられている恵みです。
神はその独り子をお与えになったほどに世を愛してくださいました。
私たち一人一人の救いの為に独り子を十字架に架けて贖いとしてくださいました。御子をさえ下さった方は、私たちに万物を備えていてくださいます。
それほどに愛されている私たちは、さらに神に近づき、ペトロの救出のような危機的な大きい問題も、あるいは日常の些細なことでも、父なる神に近づき、祈ることができるのです。
神は祈る者を喜び受け入れ、神の方法によって助けてくださいます。
ですから、「絶えず祈りなさい」(Tテサロニケ5:17)と教えているのです。
神は全能の神です。無から有を生み出される方、道なきところに道を通し、人の考えの及ばないことをなされるお方です。
この方をさらに信じ、すべてを委ね、待ち望みましょう。
教会にもまた、私たち一人一人の上にもすばらしい祈りの結果が備えられています。
祈る教会、祈るキリスト者の上に注がれる神の祝福を待ち望みましょう。


今週のみことば
「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」
使徒言行録12章5節


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