阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2022年12月18日
アドベント第4週聖日礼拝

「目を覚ましていなさい」
マタイによる福音書25章1-13節

 アドベント第四週の主の日を迎えました。教会に集まり、礼拝をささげることができて、感謝します。
アドベントは、待降節といいますが、「到来」という意味があります。主イエスの到来を待ち望み、それに備える時がアドベントです。
クリスマスを迎えるにあたり、どのような備えをするのでしょうか。
礼拝の準備、そのほかさまざまな備えをして、クリスマスを迎えます。
さらに大切な備えを心に留めようと思います。
主イエスは、さまざまなたとえ話で真理を示し、大切なことを教えられました。
マタイ24章から、主イエスの再臨について記されています。25章の十人のおとめのたとえ話も、再臨につての教えであると考えることができます。
十人のおとめがそれぞれともし火を持って花婿を迎えに出て行きます。
このおとめたちは花嫁ではなく、花嫁の友人たちです。十人のうち、五人は愚かで、五人は賢かったとあります。賢いおとめたちは、ともし火と一緒に油を入れた壺をもっていました。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、油の用意はありませんでした。
この時代のユダヤの結婚式は、数日にわたって、盛んにお祝いする習慣がありました。 
主イエスはガリラヤのカナで行われた結婚式で、水を最良のぶどう酒に変えられるという奇跡を起こされました。十分に準備したはずのぶどう酒がなくなるほど多くの人が集まり、何日も宴会をして祝ったのです。
花婿が花嫁の家に行ってお祝いする習慣もありました。花婿を迎えに出るのが、花嫁の友人たちでした。このたとえ話はそのことを通しての教えでした。
おとめたちはともし火を用意して花婿を待ちました。灯りは、ともし火皿に油を入れて、芯をひたして明かりをともすものでした。
ところが、花婿の到着が遅れて、十人とも眠り込んでしまいました。
真夜中に、「花婿だ、迎えに出なさい」と、叫ぶ声が聞こえたので、皆起きて、ともし火を整えました。
すると、五人のおとめたちの油がきれかかっていて、灯りも消えそうでした。
ともし火が消えかかっている五人は、油を持っているおとめたちに、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです」(マタイ25:8)と頼みました。
油を持っているおとめたちは、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい」(マタイ15:9)と答えました。
五人が油を買いに行っている間に花婿が到着して、油を用意していた五人のおとめは花婿と一緒に部屋に入り、戸は閉じられました。お祝いが始まりました。
油を買いに行っていた五人のおとめたちは、戸を開けてくださいと頼みましたが、戸は閉じられたままでした。
この家の主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」(マタイ25:12)と答えました。
このたとえの結論としての、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25:13)というお言葉に注意したいと思います。
主イエスは、この後十字架の道を進まれ、世の人々の贖いの為に死なれて、三日目に復活なさいました。
昇天された主イエスが再びこの世に来て下さるのが再臨です。主がいつ来られるのかは誰も知りません。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ24:36)と教えておられます。
私たちは、いつ来られるのか分からない花婿を迎えるための、油を用意しているか、していないかが本当に大切なことであると知るのです。。
おとめたちが用意した油は何を指すのでしょうか。
それは、人に分けてあげられないもの、また、分けてもらえないものなのです。
信仰はどうでしょうか。聖霊はどうでしょうか。
それらは、人が人に分けて与えられるものではなく、一人一人が主イエスに結びつき、それぞれが賜物としていただくものです。
主は、聖霊は求めるなら、だれもが満たされると約束されました。
主イエスは、「『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37)と、立ち上がり、大声で約束されました。
これは、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」(ヨハネ7:37−39)と続けられています。
信仰や、聖霊に満たされることは、神とその人との関係によるのだと改めて覚えなくてはなりません。神の恵みであり、賜物です。
主イエスの十字架をこの教えの中心において考える時、主人の厳しい言葉の意味を知りことができます。
私たちは、かつてはどのようなものだったのでしょうか。真の神を知らず、罪の中に生きて、救いから遠い者でした。
「お前たちを知らない」と言われても仕方がないような者でした。そのような者を救うために、御子はこの世にお生まれ下さり、十字架で命を捨ててくださいました。神の愛による救いです。
主イエスの十字架により、天の国の戸は開かれ、私たちは天の国の民として迎えられました。
主イエスは、約2000年前にベツレヘムでお生まれになりました。ご降誕は、天使によってまず野にいる羊飼いたちに告げられ、羊飼いたちはベツレヘムへ行って、主イエスを探し当て、神を崇め賛美しました。
羊飼いたちは、律法を知らない、守ることのできない人々であると、蔑まれていました。
羊飼いたちは御子の許に導かれて、どれほど嬉しかったことでしょうか。
羊飼いたちは、御子の誕生について何の備えもありませんでした。しかし、天使の言葉を聞いて、それを信じ、ベツレヘムへ行って御子の許に導かれました。
彼らは律法は知らなかったかもしれませんが、やがて来られるメシアを待ち望んでいたのです。
神は砕けた心を軽んじられません。謙遜な心をご覧になります。羊飼いたちの心の中の謙遜を良くご存じでした。
御言葉を聞き、従う謙遜さこそが、聖霊を心にいただく者の信仰の姿勢であり、十字架の救いを感謝して、再び来られる主イエスをお迎えする心を持ち続ける者こそ、目を覚ましている者です。
私たちは使徒信条によって信仰を告白します。
「かしこよりきたりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と告白します。
やがて再臨される主イエスを待つ信仰の確信と確認を、使徒信条で告白します。自分の信仰を省みます。
主イエスから目を離しているようなことはないか。眠り込んではいないか、どこか緩んでいるようなところはないか、私たちは、祈りと御言葉によって、日々自分自身を探ることは大切です。
眠り込んでいるようなことがあれば、直ちに目を覚まして主イエスを仰ぎ見ることができます。アドベントは、この世にお生まれ下さった主イエスのご降誕を祝い、それに備えると同時に、やがて来られる主イエスを待ち望み、備える信仰を再確認する時であることを覚えたいと思います。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(Uテモテ2:8口語訳)
目を覚ましてクリスマスを待ち望み、やがて再び来られるキリストを待ち望みましょう。


今週のみことば
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。
 わたしの宣べ伝える福音によれば、
 この方は、ダビデの子孫で、
 死者の中から復活されたのです。」
 Uテモテへの手紙2章8節



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