阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年1月8日
第2聖日礼拝
「感謝を込めて祈る」
フィリピの信徒への手紙4章6-7節

 2023年の歩みが始まっています。主イエスは今年も私たちとともにおられて、すべてに導きを与えてくださることを感謝します。
今年も祈りによって父なる神に近づき、生きておられ、祈りに答えてくださる方を知るクリスチャンとして歩みましょう。
御言葉は私たちの魂の糧です。人は食事をしなければ生命を保つことはできません。御言葉をいただかなければ私たちの魂は枯れてしまいます。御言葉によって今日も生かされていることを心にしっかりと留めましょう。
御言葉は、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(フィリピ4:6)と教えています。人は何かと思い煩うという弱さを抱えています。この思い煩うという言葉の中に、「いらだたない」という意味が含まれています。これは、心が二つに割れる、分裂してしまうということを言っているのです。目の前のことをどんどん悪く考えてしまい、苛立ちに心が疲れ果ててしまいます。
日常の生活の中で、様々なことについて、心が騒ぎ、心配し、いらだつようなこともあります。そのようなときに、まず思い起こしたい御言葉です。
主イエスは、山の上の教えで、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:25)と教えておられます。また、「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)とも言われました。
天の父は、私たちの生活全般にわたり、私たちの必要を知っておられ、愛を注いてくださり、必要のすべては与えられるというすばらしい約束です。
主イエスに思い煩いの一切をお渡しして生きる時、御言葉を体験するのです。
私たちの必要のすべてをご存じの父は、必要の一切をお与えになるのですから、思い煩いはいりません。
ですから、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と求めるべきものを教えてくださいました。
主イエスが私たちのために十字架にかかり、命を捨ててくださったことを感謝し、その圧倒的な愛に満たされ、主イエスご自身を求めるところに、神の国と義はあるのです。
それでも明日のこと、すなわちこれからのことを心配し、思い悩むことがあるかもしれません。主イエスは、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)と、言われました。
私たちには明日のことはわかりません。知っておられるのは主イエスです。主イエスにお任せして、今日を生きていくのです。
フィリピの信徒への手紙を記したのは、使徒パウロです。パウロはこの手紙をローマの牢獄で書きました。獄中書簡と呼ばれています。
パウロは、なにか罪を犯したわけではありません。主イエスを宣教したために捕えられていたのです。フィリピの手紙の最後の挨拶を読むと、「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです」(フィリピ4:22)とあるので、皇帝の家族にも福音が伝えられていたことがわかります。しかし、獄中にあるということは、常に死の危険が迫っているということでもありました。それでもパウロは主において喜びに満たされていました。
フィリピの手紙は「喜びの手紙」と呼ばれていて、「喜びなさい」と繰り返し記されています。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)。
主において喜ぶとは、主イエスとの交わりの中にある喜びです。主イエスとともにある喜びです。
主イエスは、私たちを喜びに招かれています。私たちの心に働きかけて、主イエスの御声を聞いたら、心にお迎えしてほしいと願っておられるのです。
望みが消えうせ、打ちしおれている時、心の戸を開け、喜びの源である主イエスをお迎えするようにと、私たちの心の戸を叩いておられます。主イエスを心の王座にお迎えするのです。
主イエスを信じて、心の王座にお迎えした者の心には、主イエスの喜びが必ず沸き上がります。
私たちの信仰は逆境の時に試されます。順境の時に喜ぶのは当たり前です。順境の時には、よく祈り、感謝し、喜びをもって献げることができます。
ところが、ひとたび苦しみの中に投げ込まれるような思いをすると、「なぜ、私はこの苦しみを受けなければならないのか」と、主に問い、嘆くのです。
このような時にこそ、自分自身の信仰がわかるのです。しっかり、主イエスという土台にたっているかどうかということです。
旧約聖書のヨブ記に登場するヨブは、落ち度のない信仰の人でしたが、大変な試練に会いました。
子供たちを失い、全財産を失い、さらに自分自身、頭から足の裏までひどい皮膚病にかかってしまいました。ヨブは灰の中に座り、陶器のかけらで体をかきむしりました。苦しい、みじめな姿です。
ヨブは以前の姿と見分けられないほどの姿になってしまいました。
ヨブの妻は、あまりのことに、「神を呪って、死ぬほうがましでしょう」(ヨブ2:9)とまで言いました。あまりにもみじめで苦しかったからです。
ところがヨブは、苦痛の中で、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」(ヨブ2:10)と言って、その唇で罪を犯すことはありませんでした。
神は、順境も逆境も合わせて作られ、すべてをご存じであることを信仰によって信じたのです。
長い長い、試みの時でしたが、ヨブは勝利しました。
私たちも試みにあっても、必ず勝利に終わります。
さらに、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4:6)とあります。
祈りは神との交わりです。神は祈ることを喜んでくださいます。神を崇め、御名をたたえつつ、具体的な願いを祈ることができます、
私たちはまず神の御心を祈ります。神はすべての人が救われることを願っておられます。
私たちは、まず魂の救いのために祈り、執り成します。どのように頑なに主イエスの救いを拒むような人であっても、神にはできないことはありません。祈りに答えて必ず救ってくださいます。感謝を込めて祈り続けるのです。
私たちの祈りと宣教によって、人は救いに導かれることを忘れてはなりません。コロナ禍の只中にあって、なかなか直接的な伝道ができなくても、電話やメール、また文書で伝道ができるのです。
人が救われるのは神の御業です。でも、私たちが宣教しなければ御業は起こりません。私たちは、神とともに働くものとされていることを心に留めたいと思います。
思い煩いは神に委ね、感謝を込めて祈るなら、神はその祈りに答えてくださり、私たちの心は人知でははかり知ることのできない神の平和に満たされるのです。
神はいつも最善をなさることを確信し、すべてを委ね、現状に心を惑わされることもなく、御業を待つ平和が心を満たします。
長年救いを祈っている人がいることでしょう。救われて喜びに満たされている姿を思い浮かべながら、喜びを込めて祈り続けましょう。
私たちの心がいつもキリストの平安に満たされて、喜びの福音のために用いられる一年であるよう、願い祈りましょう。

今週のみことば
「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
 求めているものを神に打ち明けなさい。
 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
 あなたがたの心と考えとを
 キリスト・イエスによって守るでしょう。」
 フィリピの信徒への手紙4章6-7節


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