阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年1月15日
第3聖日礼拝
「気を落とさずに根気よく祈る」
ルカによる福音書18章1-8節

 今日も兄姉と共に真の神に礼拝をささげることができる恵みと特権に感謝します。
礼拝は、私たちの信仰と生活の根本であり、中心であることを心に留めましょう。今年は、祈りによって生きておられる神に近づき、神を体験する年となるよう、導かれています。
きょうも、祈りについて御言葉から学びましょう。
主イエスは、たびたびたとえ話で真理を教えてくださいました。
ルカ18章1節に、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」とあります。
すぐに失望したり、落胆しないで、根気よく祈るべきことを教えられたのです。
人は、自分が思うように祈りが聞かれないと思うと、すぐにあきらめてしまうようなところがあります。
主イエスは祈り続けるようにと言われます。
主イエスのたとえは、ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた(ルカ18:2)と始まります。
このたとえに登場する人は二人です。
一人は、裁判官、もう一人はこの町の一人のやもめ、つまり未亡人です。当時のやもめは、働き場もなく、生活の手段を持たない、弱い者でした。
このやもめが、ひっきりなしに裁判官の所に来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」(ルカ18:3)と訴え続けました。
多分相手は、社会的な地位や身分のある者ではないかと考える事ができます。やもめの持つ、少ない財産が奪われてしまう恐れがあったのかもしれません。
やもめは、そのような自分よりも強い立場にある相手から、自分を守ってくれるようにと、裁判官に懇願しました。
裁判官は、とりあおうとはしませんでした。
旧約聖書によれば、孤児と寡婦(やもめ)と、寄留者の権利を守るようにとあります。(申命記10:17、18参照)
また、レビ記19章には、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記19:9,10)と、教えられています。
神は弱い者の上に目を注がれているのです。
この裁判官が、神を畏れる者であって、神の教えを守る者であれば、やもめの訴えをすぐに取り上げて、正しい裁きを下したに違いありません。やもめをないがしろにすることは、神の戒めをないがしろにすることだからです。
ところが、この裁判官は、神を畏れず、人を人とも思わない人ですから、神の戒めに対しても無頓着でした。自己中心の塊でした。
判断の基準は、自分の得になるかならないかだけだったのです。
自分で自分のことを、「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。」(ルカ18:4)と、言っているほどです。
やもめは裁判官の態度に失望して、あきらめたでしょうか。
裁判官がうるさいと思うほど、訴え続けました。
とうとう裁判官は、やもめの為に裁判をすることにしました。しかし、動機はあくまで自分の為でした。
裁判をしないと、やもめはひっきりなしに来て訴え、いつまでも煩わされる。最後には私を疲れ果てさせ、ひどい目に遭わせるに違いないと思ったのです。
「わたしをさんざんな目に遭わすに違いない」(ルカ18:5)という言葉の意味は、襲い掛かり、殴られるといった過激な意味があります。
やもめがそのような暴力的な行為をするはずはないのですが、裁判官の心に恐怖が芽生えてしまいました。
やもめは訴え続け、動機はともかくとして、裁判官の心を変えました。
主イエスは、このたとえの最後に、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが神は速やかに裁いてくださる」(ルカ18:7,8)と、教えておられるのです。
天の父は、この裁判官とは違います。
主イエスは、天の父は、私たち選ばれた者、すなわち主イエスを信じて神の子とされた者の叫びを聞かれ、速やかに聞いて下さると教えておられます。
神は私たちを愛して、独り子さえ惜しまず十字架に架けられたお方です。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)とある通りです。
私たちが祈りの声を上げることを喜んでくださいます。祈りとは、自分の願いを神に求めるだけではありません。
神との交わりと、賛美、執り成しです。魂の救いを信じて祈ります。天の父が私たちの祈りに答えてくださるので、人は救われるのです。
祈り続けても、なかなか救いに至らないことで、失望することはありません。
なぜなら、その祈りは御心に適った祈りだからです。
また、様々なことを祈り続けても、現実になかなか変化が見られないこともあります。祈り続けても、現状はますます厳しくなると思える事さえあります。行こうとしていた道が閉ざされてしまうようなことさえあります。厳しい生活の中に、さらに厳しさが増してくる。
そのような状況に、気落ちし、神に対する信頼さえなくすようなことがあるかもしれません。
そのような人にこそ、このたとえは励ましと希望をもたらします。
まったく無力なやもめは、訴え続けることをやめませんでした。
失望しないで、自分の唯一の手段である「訴える」ことに専念しました。不正な裁判官の心を動かし、正しい裁きの結果を受ける事ができたのです。
旧約聖書の中にも、長い間祈り続けた人がいます。
約束の子イサクです。イサクは40歳の時にリベカを娶りました。
ところが、なかなか子供が生まれませんでした。
イサクは妻のために主に祈ったと記されています。その祈りは主に聞き入れられました。妻リベカは身ごもって双子を出産することになります。エソウとヤコブです。この子供が生まれた時、イサクは60歳になっていました。
実に20年間祈り続けたのです。聖書の記事はたんたんと記されていますが、20年は長い年月です。
イサクは、あきらめず、失望せず、父アブラハムの家系が続くことを確信しながら祈り続けました。祈りは聞かれたのです。
2023年、私たちに与えられている御言葉は、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(コロサイ4:2)です。
しっかりと主イエスに結びつき、すべてのことに感謝を持って、
たゆまず祈り続ける時、かならず主は答えてくださいます。
なぜなら、天の父は祈る前から、願う前から、私たちに必要なものを知っておられるからです。
「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)。すばらしい約束です。
私たちは主イエスが再び来られるその時まで、信仰を固くし、祈り続ける、希望を持ち続ける、生きておられる方を体験し続けましょう。
ますますしっかりと主イエスに結びつき、歩んで参りましょう。

今週のみことば
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。
 どんなことにも感謝しなさい。」
Tテサロニケの信徒への手紙5章16-18節



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