阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年1月29日
第5聖日礼拝
「求めなさい。」
ルカによる福音書11章9-13節 

1月第5週の主の日を迎えました。先週は大変な寒さでしたが、守られたことを感謝します。今日も霊とまことをもって礼拝をささげましょう。
私たちは、生きておられる神に近づき、祈り、神を体験できるように祈ることを教えられています。
今年は、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(コロサイ4:2)という御言葉をいただいています。
私たちの生涯が祈りの生涯であることが御心と信じます。
主イエスは弟子たちの「私たちにも祈りを教えてください」という願いにこたえて、祈りを教えてくださいました。
主が教えてくださった「主の祈り」を、私たちも日々祈ります。
主イエスは、その祈りを教えられた後、例えをお話しくださいました。
弟子たちが、真夜中に友人の家を訪ねて「パンを三つ貸してください」と頼んだら、頼まれた友人はどのようにするだろうかという話です。
旅行中の友達が夜中に家に到着しました。ところが、食べ物が何もないので友人の家に行き、パンを貸してほしいと頼む話です。
神の教えには、「旅人をもてなせ」とあります。ローマの信徒への手紙、12章13節には、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい」とあります。ヘブライ書13章2節にも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」とあります。互いに愛し合うことの具体的な表し方です。
もてなすとは、心を尽くして親切にすることです。遠い道を歩いて旅を続け、真夜中にやっと到着して、また明日は旅に出る友人に何とか食事をして休んでもらいたいと思いました。しかし、家には今何も食べる物がありませんでした。
そこで、友達の家に行き、「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」(ルカ11:5,6)と頼みました。
すると、中からは「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」(ルカ11:7)という声がありました。
家族とともにもう寝ているこの人にとって、大変面倒で迷惑なことでした。当時のユダヤの一般的な庶民の家は、たいてい一部屋しかなく、昼は戸をあけ放っていますが、夜は戸を閉じ、家族全員が一緒に寝ていましたから、誰かが起きだすと、みんなが起きてしまうことになります。
夜中に戸が閉まっていたら、もう寝ているので起こさないでくださいという合図にもなったのです。
主イエスは、友達だからということでは起き上がってくれなくても、しつように頼めば起きて必要なものは何でも与えてくれると言われました。
しつように頼むとは、あつかましいほど、しつこく頼むという意味です。
主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ11:9−10)と教えてくださいました。
求めなさい、探しなさい、たたきなさいとは、求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさいという意味があります。
主イエスは私たちにも、厚かましいほどの熱心さをもって祈り続けることの大切さを教えておられます。
主イエスは私たちに根気よく祈るようにと教えておられます。
祈りがすぐ聞かれないと、すぐにやめてしまうことはないでしょうか。
もし、その祈りが御心に適った祈りなら、必ず神は最善とされる時に最善の方法で聞かれます。
祈り続ける中で、その祈りが自分中心の祈りであるなら、聖霊はそれを教え、悔い改めを与えて御心に沿った祈りに導いて下さいます。
天の父に私たちの声は届いています。しかし、罪を持っているとそれを悔い改めるように導かれるのです。
「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1−2)とあります。
また、ヤコブの手紙には、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)とあります。
自分の欲を満たすための祈りは祈りにはなりません。神との会話ではなく、ただ自分の願いを一方的に語っていることになります。
人が心に幸せを覚えるのは、自分が神と人のために用いられていることを覚える時です。
神を愛し、人を愛すること、これが一番大切な教えです。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:9,10)。
私たちが祈る時、神は祈りの中でこのようにいつも語ってくださいます。すでにキリストの十字架の血で罪赦された者として、さらに心の奥を聖霊によって探っていただき、清められる時、御心に適った祈りをささげる者となるのです。
真夜中に友人の家に行き、執拗にパンを求めたのは、その動機が旅をしてきた友人への愛であったことを覚えます。
愛の祈りは必ず答えられます。祈り続け、求め続け、叩き続け、探し続けましょう。
さらに主イエスは、天の父が良い物を下さることを教えてくださいました。
「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」(ルカ11:11,12)
マタイによる福音書の平行記事によると、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか」(マタイ7:9)とあります。
いずれにしても、自分の子がパンや卵を欲しがっているのに、害を与える石やさそりを与える父親はいないのです。
主イエスは、「このようにあなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物を下さるに違いない。」(マタイ7:11)
と言われました。
私たちにとって良いものとはなんでしょうか。
私たちが生きていく上に必要なもの一切、また、心を慰め励まし、命に満たして下さる神の愛、キリストの贖いによって受けた永遠の命、数え上げることができない恵みに日々満たされています。
主イエスは、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と約束されました。
神は良い物を下さいますが、一番良いものは聖霊であることを教えてくださいました。
聖霊が私たちの内に住まわれて、霊的な祝福に満たして下さいます。
祈りは天の父に、聖霊によって、主イエスの名により祈るのです。
天の父との霊的なすばらしい交わりに導いて下さいます。
主イエスを信じた時に、聖霊は私たちの内にお住まいくださいました。主イエスの十字架により罪赦され、神の子とされた私たちは、天の父を「アッバ、父よ」とお呼びし、近づき、祈ることができます。
生きておられる神の恵みと祝福の中にこれからも生かされて行きます。御心を祈り、御心が成ります様にとさらに祈り、日々の生活が祈りの生活であるよう、生きておられる主イエスを仰ぎながら進んでいきましょう。

今週のみことば
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
 自分の子供には良い物を与えることを知っている。
 まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」
 ルカによる福音書11章13節




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