阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年2月12日 
第2聖日
「わたしたちの罪を赦してください」
ルカによる福音書11章4節

 きょうも霊と真をもって礼拝をささげましょう。
父なる神は私たちの礼拝、賛美を、喜び受け入れてくださいます。心から賛美の声を上げましょう。
このところ、主イエスが教えてくださった祈りについて教えられています。
今日は、主の祈りの5番目の祈りである、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(ルカ11:4)という祈りについて深く考えてみたいと思います。
この祈りには、「罪」という言葉と、「負い目」という言葉が使われています。負い目とは、負債のことですが、負い目のある人とは、私たちに対して罪を犯した人を意味します。
負債という言葉も罪を表しています。
私たちの罪を赦してくださいという祈りは、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(ルカ11:3)という祈りの後の祈りです。
糧を与えてくださいという祈りは、私たちの生活の中に欠かすことのできない祈りです。
それと同じように、自分の罪の赦しを求める事と、人の罪を赦す祈りは、生活の中の祈りであることを覚えたいと思います。
人は、心に傷をおうと、傷を負わせた出来事や、人を赦すことができません。
たとえ、自分が原因で事態が悪くなったとしても、人に責任転嫁したい心を持っていて、傷をいつまでも抱えてしまいます。
赦すことは難しいことなのです。
主イエスは、私たちの持っている心の罪を「負い目」と言われています。負い目は、「負債」です。
主イエスを信じる以前には、自分が罪人であるなどと、考えたこともなかったでしょう。
人に迷惑をかけることもなく、立派に生きていると思っていました。
主イエスに導かれて、初めて自分に負債があることがわかりました。
罪という負債です。
負債は返さなければいけません。ところが、それは返す事が出来ないほどのものなのです。
主イエスは、私たちの罪を御自分が身代わりになって返済するために、世に来てくださいました。
それは十字架による贖いです。主イエスの十字架以外に、人の罪の赦しの方法はないのです。
私たちの罪の負債は、主イエスが十字架に架り、命を捨ててくださったことで、帳消しにされて無くなりました。
愛による贖いです。私たちは、主イエスの十字架により罪赦され、贖われて神の子とされました。
生活の中で、罪赦されている喜びと感謝を、忘れているようなことはないでしょうか。
赦された者は赦すものです。
主イエスは、一つのたとえで教えておられます。仲間を赦さない家来のたとえ話です。
ある時、弟子のペトロが主の許に来て、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ18:21)と質問しました。
主イエスは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と、お答えになりました。
七の七十倍とは、回数ではなく、無限に赦しなさいという意味です。
そして、赦されたのに赦さない家来のたとえをお話になりました。
王様が、家来たちと負債の清算を始めました。主イエスはこの話を、天の国のたとえとして話されています。人はいつか罪の負債の清算を求められるのです。
決算をしてみると、一人の家来は一万タラントンの負債があることが判明しました。
一万タラントンとは、人が一生働いても返しきれない金額です。
返済できるわけがありません。この家来は王様の前にひれ伏して、返済の猶予を求めました。王様に、「きっと全部お返しします」としきりに頼みました。
王様はどう思ったでしょうか。あり得ないことが起こりました。その家来を憐れに思って、この家来を赦し、負債を帳消しにしてくれたのです。
家来が王様の前から退出して外に出た時、別の家来と出会いました。
一万タラントンという莫大な負債を赦された家来は、ちょうどそこで出会った家来に100デナリオンを貸していたのです。
100デナリオンは、100日分の賃金です。
すると、首を絞めて、「借金を返せ」と迫りました。仲間の家来は「必ず返すから」とひれ伏しました。
しかし、この家来を捕まえて、借金を返すまで牢に入れてしまいました。
王様は、このことを聞いて心を痛め、一万タラントンを赦した家来を呼びつけました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイ18:32,33)と言い、一万タラントンを返すまでと、牢役人に引き渡してしまいました。
主イエスは、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18:35)と言われたのです。
私たちも自分自身の心をいつも探り、自分の内にある罪について知る事は大切です。
自分が十字架で罪を赦された罪人であることを知るなら幸いです。
自分は主イエスの十字架の赦しを受けたのに、人を赦さないでいることはないだろうかと、自分自身の心と思いとを探る事が出来るのは、幸いなことです。
人を赦すということは、簡単なことではありません。しかし、そうするようにと、主イエスは教えています。
赦された者は赦す者です。
主イエスはご自分がこの世に来られた目的を、「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と宣言されました。
仕えられるためではなく、仕えるために、そして、十字架に架けられて、ご自分の命により、世の罪の代価を支払われたのです。
私たちは主イエスの十字架によって罪赦され、救われて永遠の命を持つ者とされました。
神との和解がなされ、神の子として神と交わり、祈りをささげる事が出来ます。
神の子としての特権と恵みに満ち溢れています。
そのようにしていただいた私たち、すべての罪を赦されている者が、赦すことをしないとすると、それはどのようなことなのでしょうか。
私たちは、赦すことについて無頓着でいてはならないのです。
祈りの中に神は罪を示してくださいます。
そして、十字架の血汐を仰ぎ、赦された喜びを知ります。私たちの心は聖い御霊に満たされるのです。
互いに許し合い、祈り合う喜びを分かち合いましょう。
赦されている喜び、赦すことのできる喜びと平安の中にさらに主に近づきましょう。
「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」(ルカ11:4)。
この祈りが心からの祈りであり、実現する祈りであることを信じ、さらに主を崇めましょう。

今週のみことば
「互いに親切にし、憐みの心で接し、
 神がキリストによってあなたがたを
 赦してくださったように、赦し合いなさい。」
 エフェソの信徒への手紙4章32節


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