阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年2月26日 
第4聖日礼拝
「わたしがあなたがたを選んだ」
ヨハネによる福音書15章16節
 週の初めの日、主の日に礼拝をささげることができることは、すばらしいことです。主イエスは十字架に架られ命を捨てて下さり、全世界の罪の贖いを成し遂げられて、3日目に甦られました。
日曜日の朝主イエスが復活されたことを記念して、主を信じる者は日曜日に礼拝をささげるようになりました。
私たちが日曜の礼拝をささげることは、主イエスの復活の証しなのです。
きょうも、主の復活を覚えながら、魂の糧である御言葉にあずかりましょう。
主イエスは、十字架に架られる直前に、弟子たちと最後の食事をされました。その席で、大切なことを教えてくださいました。
主イエスはまことのぶどうの木で、わたしたちはその枝であること。枝が木につながっていなければ、実を結ぶ事が出来ないこと。主イエスにしっかりとつながり、主もつながってくださるなら、豊かな実を結ぶことを教えてくださいました。
そして、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と教えてくださいました。自分が主イエスを選んで従ったのではなく、主イエスが選んでくださったのだということです。
主イエスの選びは、不思議な選びです。
使徒パウロは、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無(む)に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Tコリント1:27−29)と記しました。
身分のある者や、力のある者ではなく、あえて無に等しい者を選ばれたとあります。
たしかに、主イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師出身の者たちが多く、教養や学問からは遠いと考える事が出来ました。
ファリサイ派は、弟子たちを「無学な普通の人」(使徒4:13)と言って軽蔑しました。
主イエスの選びは不思議です。私たちもかつては真の神を知らず、救いから遠く、滅びに向かって歩んでいた者でした。
救われる以前は、自分には何かしらの力があると思い、誇る心もあったかもしれません。
しかし、主の贖いにあずかり、永遠の命をいただいた時、自分の誇りなど、ちり芥に等しいと知る事が出来たのです。
「誇る者は主を誇れ」(Tコリント1:31)とある通りです。私たちの誇りは主イエスだけなのです。
主イエスは、永遠の命の希望から遠い者だった私たちを、選んでくださいました。
選びの目的について、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15:16)と、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)と、あります。
一回だけ実が実るのではなく、その実がいつまでも実り続けるためと教えられています。
主イエスの実を実らせ続けていくようにと教えているのです。
その後、主イエスの十字架の死と復活、ペンテコステの聖霊の傾注と教会の誕生とつぎつぎと御業が現れていきます。
主の教会は迫害を受け、信徒たちはエルサレムから地方に散らされて行きます。しかし、彼らは行く先々で主イエスを宣教したのです。
まさに、出て行って福音を伝え続けました。
異邦人にも福音が届き、やがて、全世界に福音が伝えられていきました。
私たちも宣教の実の一つです。
2000年以上も教会は宣教を続け、数えきれないキリスト者が困難や迫害を乗り越えて主イエスを伝え続けました。
その実が残っているのです。
そして、福音は私たちにも託されました。
私たちが主イエスを語る時、御業は必ず現れます。人の救いは神の御業です。私たちは主イエスを伝え、神が救われるのです。
私たちは神と共に働く光栄にあずかるのです。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Uテモテ4:2)との命令がなされました。
この数年、新型コロナウイルスがはびこり、今も完全に感染は終息していません。感染力が強いので、非常に感染しやすいのです。しかも軽症で済めばよいですが、コロナの為に亡くなる方もあります。
3月中旬からは、マスクをするかしないかは個人の判断になるそうですが、そうするとまた感染が広がる恐れもあります。
そのような状況の中で、伝道はどうしたらよいのかと思います。
どのような中でも伝道はできます。毎週YouTubeで礼拝が配信されています。賛美の配信もあります。
ほとんどの兄姉がLINEを使っていると思います。メールや、手紙でも伝道できます。
コロナ禍でも友人に会うこともあるでしょう。会話の中で一言主イエスを伝え、教会に招くこともできるのです。
自分がクリスチャンであることを伝えておくと、何かの時に思い出して、主イエスに心を向けるかもしれません。
私たちも実を結ぶことが必ずできます。実を結ぶことが御心だからです。
主イエスは、「わたしの名によって願う」という大切なことを教えてくださいました。イエス・キリストの名によって祈ることを教えて下さったのです。
私たちは主イエスの名によって祈ります。主イエスの名というのは、主イエスご自身のことです。
主は、御自分の名によって祈ることを教えてくださいました。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)。「また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
(ヨハネ16:23,24)。
主イエスはこのように「イエスの名によって」祈ることを教えておられます。
しかし、何でも聞いてくださるから、自分勝手な祈りをするという事とは違います。イエスの名によるとは、御心の祈りをささげることです。
「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(Tヨハネ5:14)とあります。
イエスの名によって祈るということは、神の御心を祈る事であり、主イエスの栄光をほめたたえることなのです。
祈る事が出来るのは、主イエスの十字架による罪の赦しを受け、救われたクリスチャンの恵みであり、特権です。
救いの実を結び、その実がいつまでも残るように祈り、神が選んでくださったことを深く思い巡らしながら、御心を祈るという祈りの生活は、主イエスと共にあることを確信させます。
福音の実が結ばれ、その実がいつまでも残るよう、さらに父なる神に近づき、願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために、主イエスの名によってささげ続けて参りましょう。

今週のみことば
「あなたがたがわたしを選んだのではない。
 わたしがあなたがたを選んだ。」
 ヨハネによる福音書15章16節


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