阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年3月5日 
第1聖日
「愛に溢れて」
マルコによる福音書14章1-9節
 一週間守られて、今日も私たちの天の父に礼拝をささげることのできる恵みを感謝します。
3月になりました。まだまだ寒いですが、梅の花が咲いています。
季節ごとに花を咲かせ、実を実らせてくださる全能の神を崇めます。
きょうも、霊と真によって礼拝をささげましょう。
主イエスは、私たちの罪を贖い、十字架に架って死んでくださいました。そして、三日目に甦られて、天の父の右の座に着かれました。
生きておられる主イエスは、私たちの為に執り成しをしてくださっています。主を崇めます。
過越祭と除酵祭の二日前、主イエスはベタニアの重い皮膚病のシモンという人の家で食事の席に着いておられました
過越祭は、言うまでもなくイスラエルがエジプトから脱出し、解放されたことを記念する祭りです。
エジプトのパロはなかなかイスラエルを解放しませんでした、
とうとうエジプト中の初子が打たれてしまいました。その夜、家の戸口の柱と、かもいに小羊の血を塗ってある家は守られました。主の御使いはその家を過ぎ越されたのです。
除酵祭は、発酵菌を入れないパンの祭りです。エジプト脱出の時パン種を入れないパンを急いで焼いて食料としました。そのことを記念する祭りで過越祭に続いて7日間持たれました。
祭司長や律法学者たちは、主イエスを捕らえて死刑にしようと画策していましたが、祭りの間は民衆を恐れてやめておこうと考えていました。
このような時に、主イエスはシモンの家に来られたのです。
シモンのような病気の人は、村に入ることはできませんでした。
シモンは、主イエスによって病気を癒されて家に戻っていたのでしょう。
するとそこへ一人の婦人がやって来ました。
この婦人は、純粋で大変高価なナルドの香油の入った壺を持って来て、その壺を壊して主イエスの頭に注ぎかけました。
家は香油の香りで満ちました。
すると同席していた何人かが香油を無駄遣いすると批判しました。
この香油は300デナリオン以上に価値があり、それを売って貧しい人に施すことができると、この婦人を厳しく咎めました。
300デナリオンとは、300日分の賃金に相当する金額です。
すると、主イエスは、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるのだから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14:6−9)と言われたのです。
主イエスは、この婦人は私に良いことをしてくれたと言われました。良い事とは、美しい事と訳すことが出来る言葉です。
主イエスは、御自分が十字架で命を捨てて、すべての人の罪の贖いをなされることを知っておられました。しかし、それは弟子たちもだれも理解していませんでした。この婦人も知りませんでした。
ですから、婦人は主イエスのお言葉を聞いて驚いたことでしょう。
主イエスに対する愛が溢れて、自分の持っている大切なものすべてをささげたい、すなわちナルドの香油を全部注ぎたいという思いだけがあったからです。主イエスの葬りの油注ぎなどとは思ってもいませんでした。
主イエスの葬りの準備としての香油であるなら、この婦人は最も良い事、美しい事を主イエスのためにすることができました。
この美しい行いは、この婦人の信仰によってなされました。
香油を注ぎ、この方こそメシア、救い主であることを告白しました。メシアとは、ヘブル語で「油注がれた者」という意味があります。
イスラエルの王が任命される時には、預言者から油を注がれて、王の地位につきました。まだ少年であったダビデも、預言者サムエルによって油を注がれ、やがてイスラエルの二代目の王となりました。
婦人はイエスこそ王の王、救い主キリストであると告白したのです。
また、主イエスこそは贖い主であることを告白しました。
シモンの家でのこの出来事は、十字架の二日前のことです。もう、すぐに主イエスは十字架に架けられるのです。
主イエスの十字架は全世界の罪を贖うためでした。主イエスを信じる者は、主イエスの十字架によって罪を赦され、神の子とされて永遠の命に生きる事が出来るのです。
主イエスは、弟子たちに互いに仕え合うようにと教えられ、「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのとおなじように」
(マタイ20:28)と言われました。
主イエスは全世界の罪を贖う身代金を、その命で払われたのです。この方以外に人を罪から救うことの出来るお方はありません。
ペンテコステの後、使徒たちは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)と証ししました。
主イエスは、十字架の苦しみと死をもって全世界の罪を贖われた神の小羊なのです。
 当時の習慣として、家にお客様を迎える時、足を洗う事や、2,3滴香油を注ぐことがありました。それはその客を大切な方として歓迎する印でした。
この婦人は、主イエスに香油を2,3滴注ぐこともできました。しかし、香油の入った石膏の壺を割って香油を全部注いだのです。
香油はこの婦人の財産でしたが、それを惜しげもなく使い切りました。
それは、主イエスに対する愛と、献身の行いでした。
主イエスはこの婦人を称賛しました。
「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14:9)
福音が全世界に伝えられ、この婦人の美しい行いは主イエスの十字架の記念として今も伝えられています。
主イエスが再び来られる時まで語り続けられるのです。
この婦人の名前は記されていません。マグダラのマリアとも、ベタニアのマリアとも言われていますが、実際には誰かわかりません。
しかし、その愛と献身は今もこれからも伝えられていきます。
 人はさまざまな考えを持っています。食卓に着いていた人々は、この婦人の行いを厳しく咎めました。
しかし、婦人は主イエスに対する愛を、自分に出来ることで表したかったのです。
主イエスは、「この人はできるかぎりのことをした」と言われました。
私たちも主イエスに対する愛をあらわしたいと願います。
それは、他の人と同じでなくて良いのです。自分にできる限りのことをすることを教えられるのです。それについての評価は主イエスがなさることで、人がすることではありません。
主イエスに助けていただきながら、それぞれが力に応じて主イエスに仕え、愛をあらわしていく所に、聖霊の調和と御業が現れます。
棕櫚の聖日から始まる十字架に向けての一週間は、緊迫した日々でした。しかし、その中でこの婦人が香り高い純粋な香油を注いだことで、主イエスはどれほど慰められ、喜びを覚えられたことでしょうか。
私たちにとって一番大切なもの、それは自分自身です。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)この御言葉を思い起こし、主イエスの贖いを感謝し、自分自身を神に喜ばれるものとして献げていく信仰に生かされていきましょう。

今週のみことば
「心を尽くし、精神を尽くし、
 思いを尽くし、力を尽くして、
 あなたの神である主を愛しなさい。」
 マルコによる福音書12章30節


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