阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年3月26日
第4聖日礼拝
「主イエスの召しに応えて」
マルコによる福音書2章13-17節
 今日も、霊と真をもって礼拝をささげましょう。
礼拝は私たちの信仰と生活の中心であり、基本です。
父なる神は私たちを礼拝の民として整えてくださっています。
今日も心を合わせて、賛美の声をあげましょう。
今日は、レビが、主イエスの招きに応答して、主に従ったところから、御言葉を思い巡らしたいと思います。
レビは、マタイという名で知られています。
レビは、カファルナウムの町の収税所に座って、税金を取り立てる、徴税人でした。
徴税人は、ローマ帝国の手先となって、同胞から不法に税を取り立てる罪人とみなされ、誰からも相手にされず、付き合いもありませんでした。
徴税人は、税をローマに納める金額よりも多く取り立て、多く取り立てた金を、自分のものにして私腹を肥やしていましたので、余計に憎まれたのです。
カファルナウムで群衆を教えておられた主イエスは、収税所に座っているレビをご覧になりました。
多くの人が主イエスの御言葉を聞こうとして集まっているのに、レビは収税所に座っていました。
主イエスの御言葉を聞きに行っても、人々から白い目で見られて、邪魔者扱いをされることがわかっていました。
ところが、主イエスがお通りになりました。レビが収税所に座っているのを「見かけて」お声をかけてくださいました。
「見かけて」とありますが、じっとレビをご覧になる、レビに目を留められたという意味のお言葉です。
レビに目を留められた主イエスは、「わたしに従いなさい」と招いて下さいました。「私の弟子になりなさい」と言われたのです。
レビは立ち上がって主イエスに従いました。
レビにとって収税所は自分が座っている自分の居場所でした。他には居場所はありませんでした。
しかし、たった今、主イエスが「わたしに従ってきなさい」と招かれ、その御言葉に従った瞬間から、主イエスご自身が、レビの居場所となり、拠り所となりました。
真の神から遠い者であり、罪人と指さされていたレビは、たちどころに主イエスによる新しい歩みを始めたのです。
レビは、いやいや主イエスに従ったのでしょうか。そうではなく、喜んで従ったことが、主イエスを家にお招きして食事を共にすることでわかります。
レビの家の食事の席に着いていたのは、多くの徴税人や、罪人であったとあります。
主イエスは弟子たちとともに、このような人々と食卓に着かれました。
レビは主イエスに従う喜びを、自分だけのものにはしませんでした。
多くの仲間や、罪人としてのけ者にされている人々を食事に招きました。
自分と同じように主イエスに従って欲しいと願い、喜びを分かち合いました。
ファリサイ派は罪人たちと食卓を囲む主イエスを見て、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マルコ2:16)と批判しました。
ファリサイ派は、律法を正しく守り、自分は正しい人間だとうぬぼれている人々です。
高慢な者であり、人を裁く者でした。神の律法を守っていると言いながら、肝心な神の愛については無頓着でした。
自分に罪があるなどとは全く分からず、人を裁く者たちでした。
神の前に罪のない者はいません。ファリサイ派も神の前に罪深い者にすぎませんでした。
罪とは、真の神から離れて、自分中心に生きることをいいます。真の神から離れた、的外れな生き方が罪なのです。
そのようなファリサイ派でしたから、主イエスがなぜ罪人や徴税人と一緒に食事をされるのか理解できませんでした。
自分は正しい者であると信じ、公言する事ほど罪深い事はありません。
主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と、言われたのです。
健康ならば、医者は必要ありません。医者を必要とするのは、病人です。苦しい病を何とかして治してほしいと、医者を求めます。
主イエスは、罪人を救うために世に来てくださいました。
人を罪から解放し、癒してくださるお方は、主イエス以外にはいません。
徴税人たちに主イエスの救いが必要であったように、ファリサイ派や律法学者たちこそ、主の救いが必要でした。
しかし、心と霊の目は固く閉ざされ、主イエスを受け入れようとはしませんでした。
かえって、主イエスをなんとかして捕らえ、死刑にしたいと画策したのです。
そして、主イエスは十字架への道を歩まれて、全世界の罪の贖いを成し遂げてくださいました。
テモテへの手紙T、1章15節には、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(Tテモテ1:15)とあります。パウロは、自分のことを罪人の最たる者と告白しました。「私は、その罪人の頭です。」(聖書協会共同訳)と訳している聖書もあります。
自分の内に罪があることが分からないと、主イエスの十字架の救いのありがたさはわかりません。
こう告白しているのはパウロです。パウロも厳格なファリサイ派でした。自分は正しい者であると自認し、クリスチャンを迫害することが神の御心と固く信じていました。しかし、それは大きな的外れでした。
ダマスコ途上で復活された主イエスに出会い、迫害する者から宣教する者へと変えられました。
パウロも、主イエスによって召されて、従ったのです。パウロの人生は大きく変わりました。教会を建て上げ、使徒として宣教の生涯を全うしました。
迫害と苦難の人生でしたが、勝利の人生でした。義の冠栄光の冠が用意されていることを信じて喜びました。
レビも最後まで主イエスに従った人生でした。レビは、マタイという名で知られています。
彼は、旧約聖書にも詳しく、ユダヤ人のために旧約聖書を引用しながら、「マタイによる福音書」を著わしました。
カファルナウムの徴税所に座って税を取り立てていたマタイは、主イエスの招きに応じて、全く人生が変わり、福音のために大きな働きを成し遂げました。
主イエスは、今日も、あしたも、これからも私たちを召しておられます。
「きょうも私に従いなさい」と、私たちをご覧になり、御声をかけてくださいます。
私たちは、座ったままでいるのでしょうか。そうではなく、立ち上がり、主イエスの招きに応えて進みたいと願います。
主イエスは、私たちが主イエスの福音のために用いられるよう、整えてくださって、導かれます。
私たちに目を留め、導かれる主イエスに従い進んで参りましょう。

今週のみことば
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」
 という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
 わたしは、その罪人の中で最たる者です。
 Tテモテへの手紙1章15節


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