阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年4月2日
第1聖日受難週礼拝
「十字架の愛」
ルカによる福音書19章28-36節

 今日から受難週です。受難週の金曜日に、主イエスは十字架に架られました。
今週は特に、主イエスが私たちの罪を贖うために十字架に架けられ、死んでくださったこと、三日目に甦られたことを、心に深く覚えて過ごしたいと思います。
「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Uテモテ2:8)とあります。
主イエスは神であられるのに、ダビデの家系に人としてこの世にお生まれになり、人として宣教の歩みをされました。すべての人の罪の贖いの為に十字架で命を捨てられ、三日目に復活されたのです。
人は、この素晴らしい救いの事実を心に受け入れて信じ、口で告白して救われるのです。
天の父なる神は、主イエスの十字架によって、これ以上ない愛を私たちに表してくださいました。
バプテスマのヨハネは、主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と証言しました。
まさしく主イエスこそ神の小羊として犠牲となり、救いとなってくださいました。
人は誰でも、生まれながらに罪を持っています。心のなかの罪です。
生まれながらに自己中心であり、神から離れて、それぞれ勝手に自分が良いと思うように歩みますが、それは滅びに通じる道です。生まれながらに怒りの子であり、神の怒りを受けて当然の者でした。
その罪は誰にもどうすることができないのです。自分は罪を持つ者だという自覚などありません。
自分は正しい人間だと思い込んでいる人たちが、どれほど多いことでしょう。
真の神による救いなど考えることもない人が、どれほど多いことでしょう。
主イエスは、その罪の世に、罪人を救い、永遠の命を与えるために、来られて、十字架に架られました。死んで、三日目に甦られ、今も生きておられる神です。
私たち一人一人の為に、執り成し続けていてくださいます。
「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7:25)。神の右におられる救い主を崇めます。
主イエスは受難週の日曜日に、ベトファゲとベタニアに近づいた時、二人の弟子たちを向こうの村へ遣わして、まだ誰も乗ったことのない、ろばの子を引いて来させました。
ベトファゲとベタニアは、オリーブ畑と呼ばれる山のふもとにある村です。主イエスはたびたびベタニアのマルタとマリア、ラザロの家にお泊りになりました。
主イエスは二人の弟子を遣わして、まだ誰も乗ったことのないろばの子を引いてくるようにと命じられました。もしだれかがろばの子をなぜほどくのかと言ったら、「主がお入り用なのです」と言うようにと、言われました。弟子たちが出かけると、主が言われた通りでした。
「主がお入り用なのです」というと、ろばの子をイエスの許に引いて来ることができました。
主イエスは、立派な馬ではなく、ろばの子に乗って、エルサレムへお入りになりました。謙遜で柔和な姿勢を通されました。
ろばの子に乗ってエルサレムにお入りになるのは、旧約の預言の成就でした。
マタイは、主イエスがろばの子に乗られたのは、預言者を通して言われたことが実現するためであり、「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ21:5)と記しました。
これは、ゼカリヤ書9章9節の引用でした。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)。
メシアはろばの子に乗って来られる、すなわち子ろばに乗られることはメシアのしるしであると、考える事ができます。
この方は、謙遜で、柔和な方です。
主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者」(マタイ11:29)と証しされています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28)と招いて下さいました。
弟子たちは、引いてきたろばの子に自分たちの上着をかけて、主イエスをお乗せしました。
主イエスがエルサレムにお入りになったのは、過ぎ越しの祭りの時でした。祭りの為に様々な所から人々がエルサレムに滞在していました。
群衆は、自分の服を道に敷き、また木の枝を切って道に敷きました。
ヨハネによる福音書には、群衆がなつめやしの枝を持って主イエスを迎えに出たとあります。
このところから受難週の日曜日を「棕櫚の聖日」と言うようになったのです。
人々は口々にホサナと叫び、声高らかに神を賛美しました。主イエスは、群衆のホサナ、どうぞ救って下さいの声に迎えられました。
この人々は、本当の意味のメシアとしての主イエスを受け入れたのでしょうか。
この歓迎ぶりの数日後、木曜日の弟子たちとの食事の後、主イエスはゲッセマネで祭司長やファリサイ派に逮捕され、金曜日には十字架に架けられました。
ホサナと叫んでいた人々は、数日のちには、強盗をしたバラバを釈放し、主イエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだのです。
人々は、主イエスは旧約聖書に約束されているメシアと、認識していませんでした。自分たちをローマ帝国の圧政から助けてくれる、地上の王、解放者として期待し、受け入れたのです。
その期待が失望に終わったとき、主イエスに向けての、十字架につけろといった声になりました。
主イエスはご自分を、謙遜で柔和な者と証しされました。
逮捕直前にゲッセマネで苦しみ悶えて、汗が血のしたたりのように落ちるような祈りをされました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」、と祈られました。十字架のほかに救いの方法はないのかと祈られたのです。主イエスは続けて、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られました。
主は、人々の罪の贖いのために、神の小羊として十字架に向かわれました。
私たちは、まだ真の神を知らないときに神の愛を受けていました。まだ、神を愛することを知らない時から愛されていました。
主イエスは私たちを愛して十字架に架り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られました。
主イエスの、十字架によって表された神に愛されているのは、私たち一人一人です。罪をすべて赦され、神の子、光の子として歩んでいます。
私たちは、この愛にどのように答えて行けばよいのでしょうか。
神を崇め賛美し、礼拝をささげる、その恵みと祝福の内に、主イエスこそ救い主であることを語り続けていく事、これこそ愛の応答と言えるのです。
十字架で死なれ、蘇られ、今生きておられる救い主を仰ぎましょう。その十字架の苦難を覚え、御足の後をたどらせていただきましょう。

今週のみことば
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、
 子ろばに乗って。」
 マタイによる福音書21章5節


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