阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年4月9日
第2聖日イースター礼拝
「主は甦られた」
マルコによる福音書16章1-8節
 イースターおめでとうございます。
主イエスが全世界の罪の贖いのため十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目に復活されたことを記念して、礼拝をささげます。
主イエスが十字架で息を引き取られたのは、安息日の前日でした。
当時のイスラエルでは、日没から次の日が始まります。
もうすぐに安息日ですので、主の埋葬は急がなくてはなりませんでした。なぜなら、安息日には埋葬するために遺骸をきれいにする事が出来なかったからです。
ですから、アリマタヤのヨセフは総督ピラトの許に行き、主イエスの遺骸を引き取りたいと願いました。ヨセフは勇気をだしてピラトの許にいったと記されています。
ヨセフは、サンヘドリンの議員であり、身分の高い人でしたから、祭司長たちにどう思われるかなど、心配がありました。
ヨセフは主イエスの十字架については、彼らに同意しませんでした。
主イエスを信じて、神の国を待ち望む人であったとも記されています。
主が過越しの祭りの時に死なれたのは、出エジプト直前イスラエルが小羊の犠牲の血を鴨居と柱に塗って、長子の死をまぬかれたように、神の小羊として犠牲となられてことを示しています。
主イエスが墓に埋葬されたことで、たしかに十字架で死なれたことを教えています。
ピラトから主イエスの遺骸を引き取ったヨセフは、上等の亜麻布を求め、その布で遺骸を包み、岩を掘って作った墓に納めて入口には大きな石を転がしておきました。
マグダラのマリアと、別のマリアは墓の場所を注意深く見つめて、確認しました。
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはイエスの埋葬の支度の為に香油を整え、朝早く墓へ行きました。
本格的に埋葬をするためです。
墓の入り口には大きな石が転がしてあるのを知っていましたから、だれがその石を転がしてくれるかと語り合い、心配しながら墓へ向かいました。墓へ着くと、大きな石はすでにわきに転がしてありました。
婦人たちが墓の中に入ると、白い衣を着た若者が、右手に座っていました。婦人たちは非常に恐れました。
この若者は、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」(マルコ16:6−7)と告げました。
マルコは若者と表現しましたが、この若者の言葉から、彼は天から遣わされた御使いと考えられます。
婦人たちはどうしたでしょうか。墓から逃げ去りました。
恐怖に震え上がり、うろたえてしまい、誰にも何も言えませんでした。
また、マルコ16章9−11節には、主イエスがマグダラのマリアにご自身を現わして下さったことが記されています。
マグダラのマリアは泣き悲しんでいる弟子たちの所に行って、主イエスの復活を告げましたが、彼らは信じなかったとあります。
墓へ行った婦人たちが恐怖のあまり、誰にも天使のメッセージを語らなかったら、主イエスの復活はすぐに誰にも伝わらなかったはずです。
婦人たちは、いつまでも黙り込んでいたのではなく、心が落ち着いてから、ペトロと弟子たちに主の復活を伝えたのです。
信じることのできなかった弟子たちに、復活の主は何度も現れてくださいました。
11弟子が食事をしているときに、主イエスが来て下さり、「その不信仰と、かたくなな心をおとがめになった」(マルコ16:14)と記されています。
主イエスを信じるということは、十字架で死なれ、三日目に甦られて、今生きておられる救い主を信じるということです。
主イエスを信じる者は、主イエスの復活の命に生かされます。
人は、罪の為に滅びの道を歩まなければなりませんでした。罪とは、真の神から離れて、神の御心も知らず、信じようともしない的外れを言います。
天の父は、罪の世を愛されて、その独り子を遣わされました。この方を信じる者が救われて、永遠の命を持つためです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
主イエスを信じて、神の愛の内を歩む者は幸いです。
主イエスを信じた者は、だれでも新しい命に生かされています。
主イエスの十字架により、罪と死の解決ができたのです。
罪とは、心の罪であり、誰もが罪を持っています。自己中心や人を憎み、裁く心を誰しもが持っています。
なぜ、人と人が争うのでしょうか、なぜ国と国が戦うのでしょうか。
自分の義を主張し、自分の利益のみを追求するからです。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:1−3)とあります。人の罪の姿をよく言い表しています。
このような心を持つ人々の世に、主イエスは来てくださいました。
罪から救い、永遠の命を与えるためです。
十字架の血は、罪を清めます。その罪は十字架で完全に赦されます。
主イエスを信じた時から、新しい命の中を歩み続けるのです。
人はこの世に生まれたら、誰でもこの世の生の終わりがあります。
人はどこから来て、どこに行くのかと考える人は多いと思いますが、その正解を見つける人は多くはないでしょう。
人は神が創造され、本来神を礼拝し、神の命に生きる者でした。しかし、罪が入り、神との断絶が続き、滅びに向かう者となりました。
時が満ちて、救い主が遣わされ、命の道が示されました。
主イエスは、永遠の命について、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る事です」(ヨハネ17:3)と祈られました。
それは、真の神を認めること、主イエスを救い主として受け入れるということです。
人は、主イエスの十字架の死と復活を信じる信仰によって罪から解放され、永遠の命を持つ者とされるのです。これが福音です。
日曜日の朝復活された主イエスを信じる者の群れは、復活を記念して、日曜日に礼拝をささげるようになりました。
私たちが日曜日に礼拝するのは、主イエスの復活の証しです。
最初のイースターの朝、主イエスの埋葬の為に墓に行った婦人たちは、復活の事実を天使から告げられました。
恐れのあまり、口をつぐみましたが、この婦人たちから復活の事実が広められたのです。
この厳かな事実の許に私たちも主イエスによる救いを受け、永遠の命に生かされています。
復活の主イエスをほめたたえます。救いの喜びは踊りあがるほどの喜びです。
この喜びは、主イエスを誰かに伝えたいという思いが湧き上がらせます。主のお墓に行った婦人たちが口をつぐんでいたら、復活はなかなか伝えられなかったでしょう。
聖霊は宣教の力です。主イエスは十字架で死んでくださり、罪の贖いを成し遂げられ、復活して今生きておられる神であることを、多くの人々に告げ広めましょう。


今週のみことば
「あなたがたは十字架につけられた
 ナザレのイエスを捜しているが、
 あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 マルコによる福音書16章6節



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