阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年4月16日
第3聖日礼拝メッセージ
「神の前に豊かな者」
ルカによる福音書12章13-21節

 私たちの為に十字架に架り、罪の贖いを成し遂げて葬られ、復活された主イエスを心から賛美し崇めます。
今日も霊と真を持って礼拝をささげましょう。

ある時、主イエスに群衆のひとりが「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(ルカ12:13)と言いました。
この人は、自分が遺産を相続できないので、主イエスに自分の兄弟に遺産を分けるように、調停をしてもらいたいと願ったのです。
主イエスは、自分は裁判官でも調停人でもないと、断りました。
本来、そのような調停は、ユダヤの宗教的指導者、ラビと呼ばれる者の役割でした。
主イエスは、調停を頼んだ人の動機が、より多くの遺産を受けたいという貪欲であったことを知っておられたのです。
人の心の中には貪欲という心があります。もっともっと欲しいと執着して、満足も、感謝もない思いです。貪欲は人を幸せにはしません。
聖書は、貪欲は偶像礼拝であると教えています。
人は、神と富と両方に仕えることはできません。貪欲な心は神を心から追いやることにつながり、愛を忘れさせます。
そこで、主イエスはたとえでお教えになりました。
ある金持ちの畑が豊作でした。金持ちは、収穫をしまう倉がないので、今ある倉を壊してもっと大きい倉を建てよう。そこに収穫した穀物や全財産をみなしまっておこう。
この金持ちの言葉には、訳されていないのですが、「わたしの」という言葉が繰り返されています。
「わたしの倉」、「わたしの穀物」、「わたしの全財産」と言っているのです。
そして、自分に、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(ルカ12:19)と自分にいってやるのだと、考えたのです。
ただただ自分の生活の安楽さや、自分の楽しみだけしか考える事しかできませんでした。
これで、一生あくせく働かずに遊んで暮らせると喜びました。
これは、普通一般に共通する考え方です。
富は人に平安を与えるのでしょうか。かえって盗まれたり、失ってしまう不安が大きくなるのではないでしょうか。多くの財産によって、本当の幸いはありません。
人は、この世のどんなに素晴らしいと思えるものを得ても、本当の平安と幸を得ることはありません。
神はこの人に、「愚かな者よ」と語り掛けられました。
「愚かな者」とは、知恵がないことではなく、神を知らない、神を忘れた人を言います。
「神を知らぬ者は心に言う 『神などないと』」(詩篇14:1)と記されています。口語訳では「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」と訳されています。
神はこの金持ちに何と言われたでしょうか。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)と言われたのです。
これからの人生は安楽で楽しみがいっぱいだと喜んでいた人の命はその夜失われてしまいました。
多くの人は、自分の命も体も、持ち物もすべて自分のものと考えています。時間もそうです、何から何まで自分が働いて、自分が築きあげ、手に入れたもので、自由に好きにして構わないと思っています。
本当にそうなのでしょうか。
私たちの人生で絶対ということはありません。今は健康であっても、人の体は病気をします。自分でいろいろな計画をたてても、もし体を壊してしまったら、計画を断念することになるでしょう。
今は、経済についても心配がなくても、それはいつしかなくなってしまうものと考えられます。こんなはずではなかったと思いながら、生きている人々は多いのです。
私たちの命も、全てのものも、神の栄光の為に管理をよくするようにと、私たちに委ねられていることを忘れてはなりません。
命は自分のものではなく、神のものです。ですから大切にしなければなりません。
日々、神の御心を伺いながら、神の御思いを探りつつ歩むのです
今日あなたがわたしに持っておられるご計画は、どのようなことですかと、祈ると、神はかならず答えてくださいます。
祈りは神との交わりで、会話です。神との正しい関係の中で祈る時、間違っても、これは私の物、命もすべて自分のものなどと自分中心に考えることはないのです。
私たちは神を忘れた愚かな者ではありません。
主イエスの十字架の血汐で罪赦され、神の子とされた者です。それにふさわしい歩みも備えられているのです。
貪欲という罪に、足をすくわれそうになる人々に、主イエスはどのように教えられたでしょうか。
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(ルカ12:22−31)と教えてくださいました。
この世にあって、主イエスの御言葉を信じて従うとき、平安と感謝が湧き上がります。
何かの必要を覚えて祈る時、必要は必ず満たされます。
平安がない時、祈りましょう。かならず神の平安が湧き上がり、心が満たされます。
神の前に豊かな者とは、決してこの世の富やすべての物を貪欲に求める者ではなく、主イエスにより贖われて、神の御言葉を糧として、神と共に歩む者です。
主イエスの十字架により、永遠の命を持つ者とされたことを感謝しながら、この世を歩む者です。
あらためて主イエスが教えてくださった、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)というお言葉を心に受け入れて、富や世の事についての試みがあるとき、御言葉によって勝利していきましょう。
私たちの心はどこにあるのでしょうか。
主イエスは、尽きることのない富を天に積むようにと教えてくださいました。
 富を天に積むとは、いつでもどのような時にも、御心に生きる、主イエスに従い続けるということです。
目に見えない富を天に積むなら、私たちの心は御国にあるのです。
あらためて神の前に豊かな者として、祝福の中に、信仰の歩みを続けて参りましょう。


今週のみことば
「あなたがたの富のあるところに、 あなたがたの心もあるのだ。」
 ルカによる福音書12章34節



 ページのトップへ
  
2023年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ