阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年4月30日
第5聖日礼拝メッセージ
「主イエスの道」
マルコによる福音書10章46-52節

私たちを礼拝の民として招いて下さる救い主を、心から賛美します。
私たちは神の言葉で魂が養われ、生かされています。きょうも御言葉が私たちに植え付けられ、新しい命に満たされるよう、待ち望みましょう。

きょうのテキストには、目の不自由なバルティマイが癒された出来事が記されています。
マタイ、ルカの福音書にも平行記事が記されていますが、マルコだけがこの盲人の名はバルティマイであると記しています。
バルティマイとは、ティマイの子という意味ですが、また、バルティマイとは、「罪の子」という意味をもちます。
このような名は、子供に名付けないと思うのですが、この出来事から教えられる時に、このような名がつけられていたことに、大変意味があったことがわかるのです。
バルティマイは、エリコの町の道端で物乞いをして生活をしていました。
物乞いを道の真中ですることはできません。人々の邪魔にならないように、道の端にいなければなりませんでした。
主イエスの一行がエリコを出て行こうとしたとき、バルティマイは、主イエスが近くにおられることを知りました。すると、「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください」と、言い始めました。
イエス様、今、わたしを憐れんでくださいと叫び出しました。
周囲の人々は、彼を厳しく咎めました。黙るようにと言いました。
しかし、バルティマイは、ますます主イエスにむかって、わたしを今憐れんでください、恵みを与えてくださいと、叫び続けました。
主イエスにバルティマイの声は届きました。主イエスは立ち止まってくださいました。そして、「あの男を呼んで来なさい」と言って下さいました。
弟子たちや周囲の人々は、「安心しなさい、立ちなさい。お呼びだ。」(マルコ10:49)とバルティマイに声を掛けました。
安心しなさいとは、元気を出せということなのですが、大変すばらしい招きの言葉です。
目の不自由なバルティマイは、毎日生活の事や、将来のことなど、不安を抱えて過ごしていたことでしょう。
物乞いの生活には、何の支えもなく希望もありませんでした。
そこへ、「安心しなさい、お呼びだ」と声が掛けられたのです。
バルティマイの身には、まだ何もおきていません。でも、彼は、上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエス様の所に来たのです。
バルティマイの上着は、みすぼらしいものだったでしょう。しかし、それは彼の唯一の財産ともいえるもので、夜には布団になりました。
なくなると困る大切な上着なのに、それを脱ぎ捨てたのですから、どれほどの嬉しさの表れかがわかります。
主イエスは、バルティマイに「何をしてほしいのか」(マルコ10:51)と聞いて下さいました。
「先生、目が見えるようになりたいのです」と、即座に素直に答えました。
主イエスとの会話が交わされました。
私たちは、この場面で祈りについて思い起こすことができます。
私たちは、どのような祈りをささげているでしょうか。形だけのうわべだけの祈りは、祈りと言えません。
祈りは神との会話です。幼子がたどたどしい言葉で両親に語り掛ける時、両親は愛を持って、また忍耐をもってその言葉を聞きます。
幼子の言葉に応え、また、幼子も語るのです。
そのような素直な会話を天の父としているかどうか、自分の心を探りたいのです。天の父は、いつも私たちを招き、御声をかけて、恵みを豊かに与えてくださいます。私たちも感謝をささげ、賛美をささげ、自分自身を御前に差し出します。
そのような祈りは、祝福に満ち溢れ、さらに恵みに恵みが注がれます。
バルティマイの身に奇跡が起こりました。
主イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」
(マルコ10:52)と声をかけてくださいました。
盲人は、すぐ見えるようになったのです。
そして、バルティマイは、なお、道を進まれるイエスに従ったのです。
主イエスは、「さあ、行きなさい」と言われました。今日から、たった今からあなたは新しい道を歩みなさいと、声を掛けられたのです。
バルティマイの心には、主イエスを信じ、期待する信仰がありました。
12年間も病気で苦しんでいた婦人が、主イエスの服の房にでも触り
さえすれば癒されると信じたようにです。
病気の婦人は群衆に紛れて、わからないように、そっと主の服にふれま
した。主イエスは、この婦人にも優しく「娘よ、元気になりなさい。
あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9:22)と語り掛けてくださ
いました。この婦人は、癒されたのです。
主イエスは、どのような人にも目を注ぎ、救いと癒しの御手を伸ばし
てくださいます。
バルティマイは、「罪の子」という名でしたが、主イエスに癒され、救われて「光の子」となる事が出来ました。
体の癒しは大切です。主イエスに祈り続けます。さらに大切なことは、心が救われ、癒されることです。
「罪の子」は、主イエスを信じる信仰で光の子とされ、新しい命に生かされます。
人はだれでも「罪の子」です。生まれながらに罪があります。
「肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべきものでした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをキリストと共に生かし・・・」(エフェソ2:3−4)。とある通りです。
そのような者に主イエスは御声をかけてくださいました。恵みにより、信仰によって救われたのです。
神の怒りを受けて当然な者の為に、主イエスは十字架の道を進んでくださいました。
バルティマイの出来事は、主イエスがエルサレムにお入りになる直前の事でした。
次の週の金曜日には、主イエスは十字架に架られて、死んで葬られると言う、大変緊迫していた時期の出来事であったことを、覚えたいと思います。
主イエスの十字架は、罪ある者のためでした。主イエスは罪の身代わりとなり、死んで葬られ、三日目に甦られました。
今生きておられ、わたしたちのために執り成し続けていてくださるのです。
今こそ、救いの日です、恵みの時です。だれでも信じるなら救われる素晴らしい時なのです。
バルティマイの出来事を通して教えられるのは、道の端で希望もなく、物乞いをしていた者が、主イエスによって救われ、目が開かれ、魂が主イエスの命に満たされて、神を賛美しながら主イエスの道を進む者になった事なのです。
主イエスは、なおも道を進まれました。十字架の道です。
私たちはどのような道を歩んでいるでしょうか。私たちは主イエスの道を歩んでいるでしょうか。
その道は狭く、ある時には歩きづらい道であるかもしれません。試練の道かもしれません。主の道を歩みながらも、世の誘惑があるかもしれません。
しかし、主イエスの十字架によって、罪赦され神の子とされた者は、主イエスの道を歩み通します。永遠の命の祝福の道です。
私たちは、「安心しなさい、主イエスが呼んでおられる」と、多くの人に声をかけることが出来るのです。福音のために主イエスの道を歩み通しましょう。

今週のみことば
 そこでイエスは言われた。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 盲人は、すぐ見えるようになり、
 なお道を進まれるイエスに従った。
 マルコによる福音書10章52節


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