阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年7月16日
第3聖日礼拝
「主イエスの言葉を思い出すように」
使徒言行録20章34-35節

 日曜日ごとに真の神を礼拝できる恵みを感謝します。
一週間の旅路も守られて、感謝します。
使徒言行録18章23節には、パウロが第三回目の伝道旅行に出発したことが記されています。
いつもシリアのアンティオキア教会から出発して、各地を巡って行き、迫害と困難の中で教会を建て上げていきました。
伝道して建て上げた教会を励ましながら、旅を続けました。
旅の終わりにはエルサレム教会へ行って報告をして、それからアンティオキアに帰るというパターンでした。今回もアンティオキア教会から出発しています。
第三回目の伝道旅行では、エフェソで長期間福音を伝えて、ユダヤ人でもギリシャ人でも、誰もが福音を聞きました。
ところが、エフェソのアルテミス神殿の模型を作って利益を得ていたデメテリオと仲間たちが、パウロの宣教により自分たちの仕事に損失が出てしまうことを恐れて、騒動を起こしました。
パウロの同行者のガイオと、アリスタルコを捕らえて、野外劇場になだれ込みました。
群衆は口々にわめきたてて、混乱して、多くの人々は何の騒ぎか分からなかったのです。やっと町の書記官が騒動をおさめて、人々を解散させました。
騒動が治まった後、パウロは同行者と共にマケドニアを巡り、フィリピから船でトロアスへつきました。このトロアスは、二回目の伝道旅行の時に、マケドニアに渡ってきて私たちを助けてくださいと願う幻を見た町で、ヨーロッパ伝道の発端となった町でした。
パウロの同行者たちはトロアスから船でアソスへ向かい、パウロと落ち合うと、船でミレトスへ着きました。
パウロは五旬祭までにエルサレミに帰りたかったので、エフェソに寄ることができませんでした。それで、ミレトスからエフェソへ使いをやって、エフェソ教会の長老たちを呼び寄せました。
エフェソとミレトスはおおよそ80キロメートルの距離です。エフェソ教会の長老たちは急いでパウロの許を訪れたことでしょう。
パウロはここで、告別説教とも言われているメッセージを伝えます。
かつてパウロは涙を流しながら、そしてユダヤ人による迫害に遭いながら,キリストを伝え続けました。それはキリストに仕えるという事でした。
「この身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」(使徒20:19)と告白しています。パウロは宣教することは、主に仕えることであると語っています。
これは、キリストの僕として仕えるということなのです。
この御言葉から私たちは、キリストに仕えることを考えたいと思います。仕えるとは、奉仕という意味です。
私たちは日曜日ごとに教会に集い、礼拝をささげますが、礼拝の事は英語で「サービス」と言います。朝の礼拝は、モーニングサービスです。
礼拝は、主の僕である救われた者たちが神に仕える奉仕であることをいつも覚えたいと思います。
私たちは、今日は何々の奉仕に当たっていると考え、あるいは今日は奉仕はないと思うことがあるのですが、具体的な奉仕のそれ以前に、礼拝そのものが大切な奉仕であることを覚えましょう。
私たちが存在している目的は、「神の栄光を現わす」ことです。
神の前にへりくだり、神の言葉を聞き、従う姿勢を持ち続けるなら、
私たち一人一人を通して神のすばらしさが現れてくるのです。
「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」。(Tコリント10:31)
パウロは、御霊に導かれてエルサレムへ行くことも話しました。エルサレムでパウロは逮捕されて、結局ローマのカイサルの許へ上訴のため行くことになります。
聖霊は苦難を告げていますが、福音を伝えることと、自分の決められた道を走りとおすなら、命さえ惜しくないとも告白しました。
パウロは、教会は、キリストの血で贖われたキリストの教会であること、自分自身と、群れ全体とに気を配るようにと教えました。
パウロによって教えられた神の言葉を思い起こしながら、いつも目を覚ましているようにとも教えました。
パウロは神とその恵みの言葉に教会を委ね、弱い者を助けるようにと励ましました。
パウロは、主イエスが教えられた、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という言葉を強調しました。幸いであるとは、祝福されるという意味があります。
この御言葉はそのままでは聖書にはありませんが、主イエスはいつも与えることを教えておられます。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(ルカ6:38)と、教えられました。
主イエスを信じた者は、新しい命に生まれ変わり、新しい命を生きます。主イエスの十字架による贖いで、罪が赦され、神の子として生きる者となりました。
罪が許され、喜びに満たされる者は、赦す者になります。救いの喜びに満たされると、人を裁くことは空しいと気が付くのです。
主イエスの愛に満たされた心は、主イエスに仕え、従うことに大きな喜びを覚えます。
パウロはどのような迫害があっても、最後まで主イエスに従い続けました。それは主イエスに対する愛が動機でした。
エフェソの長老たちにも、キリストの愛に満たされ、キリストの御言葉を思い起こし、教会を守るようにと教えました。
話し終えてからパウロたちは皆と一緒にひざまずいて祈りました。
心を合わせて祈ることは力です。
パウロにもう二度と会えないという悲しみはありましたが、共に祈り、主イエスの恵みを確信する事ができました。
泣きながら別れを惜しみ、人々はパウロを船まで見送りに行きました。
パウロの告別説教は、私たちにも主イエスに従うクリスチャンとしての生き方を教えています。
真剣に神を礼拝しているだろうか、神を心の中心にお迎えしているだろうか、神の言葉によって生きているだろうかと、しっかりと自分自身を省みることができます。
キリストの愛を受けた者は愛に生きる事ができます。
エリコの町に住んでいた、ザアカイはどうだったでしょうか。取税人の頭として生活し、財産を蓄え、それに頼るような生き方で、誰にも心を開くことはありませんでした。人に与えることなど、考えたこともなかったでしょう。
ところが主イエスにお会いして、自分の家に泊まっていただくことになり、瞬時に心は変わりました。
あれほど大切で、失ってはいけないと大切にしていた財産を、施すことを決めたのです。主イエスに言われたからではありません。自分が決めたのです。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)と言いました。これはザアカイの信仰の告白です。
主イエスを家にお迎えすると同時に、心にお迎えすることができたのです。
主イエスを心の王座にお迎えしましょう。主イエスの僕であることを光栄に思い、これからも従い続けましょう。
主イエスの豊かな祝福を受ける者であることを大いに喜びましょう。

今週のみことば
また、主イエス御自身が「受けるよりは与える方が
幸いである」と言われた言葉を思い出すようにと、
わたしはいつも身をもって示してきました。
使徒言行録20章35節



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