阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年7月30日
第5聖日礼拝
「わたしもその中にいる」
マタイによる福音書18章19-20節

 主イエスの愛の御手に守られて導かれ、きょうも一つとなって礼拝できる恵みを感謝します。
きょうも真の神を賛美し、心から崇めましょう。
主イエスは私たち一人一人を愛されて、十字架に架かり、命を捨てて下さいました。人の力や努力では消し去ることのできない罪を担われたのです。人の罪の身代わりとして命を捨てて下さいました。
キリストの十字架は自分自身の為であったことを心に留めて、三日目に復活されたこの方によって罪許され、永遠の命に生かされていることを、いつも覚えて歩みたいと思います。
主イエスを信じる者となって、心に平安と喜びが湧き上がることを体験しました。
今は毎日本当に暑くて、もし水分を取らなかったらたちまち体は干からびてしまうのです。一日中、救急車のサイレンが聞こえます。
熱中症で搬送されるのかなと思いながら、搬送されている方がだれか分かりませんが、癒しと救いを祈ります。
体は渇きますが、私たちの魂には聖霊が命の水となって豊かに湧き上がります。主イエスを信じた者の心に与えられる恵みです。
主イエスは、仮庵の祭りの終わりの日に立ち上がって、大声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)と約束されました。
また、サマリアのシカルという町の井戸のそばで、水を汲みに来た婦人に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はそのひとの内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13,14)と、教えてくださいました。主イエスを信じる者には、聖霊の喜びが絶えることはありません。
主イエスを信じた時から、救いの喜びに満たされます。
そして、心を合わせて祈ることの大切な恵みを知る事が出来ます。
主イエスは、心を合わせて一つにして祈ることを教えてくださいました。
「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)と教えておられます。
主イエスは、とても大切なことを教えられる時、「はっきり言っておく」と言われました。
これは、「真実をあなたたちに告げる」という意味の言葉です。主イエスが、大切なことを語られる時に言われるお言葉です。
アーメンという言葉が使われています。お祈りの最後にアーメンと言いますが、このお祈りは「真実です。その通りです。」という意味であることを、知っておられると思います。
主イエスは、アーメンである御言葉、すなわち真実をしっかりと聞きなさいと言われたのです。
「あなたがたのうち二人」が地上で心を一つにして求めるとは、簡単なようで、案外できにくいのかもしれません。
二人とは集団の最小単位です。現在は、家族の人数が少なくなり、単身家庭や、二人で暮らす家庭が多くなっています。
あなたともう一人が心を一つにして祈れるなら、素晴らしいことが起こるのです。
夫婦でも、親子でも、教会の兄弟姉妹でも、だれでもよいのです。心を合わせて祈るなら、天の父は聞いて下さいます。
心を一つにするためには、お互いが受け入れ合うことが必要です。
裁き合っていたら、一つにはなれません。許しがない所には一致はありません。
疑いがある所にも一致は生まれません。
まず自分が、主イエスの十字架の許しを受けた者であることをいつも覚えて、許された者は許す者であると知る事は大切です。
人は、裁きやすいという性質を持っています。自分の目にある丸太には気が付かず、人の目にあるおが屑は良く見えて、「あなたの目からおが屑を取らせてください」(マタイ7:4)と言ってしまうようなところがあります。自分には大きな罪があってもそれはそのままにして、人の罪はよく見えてしまい、裁いてしまうのです。
主イエスはそのような者を、「偽善者」と呼ばれました。
「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:5)
まず自分のためにしっかりと祈り、十字架の血によっていつも罪を許してしていただかなければなりません。
それから、家族や、教会の兄姉のために日々とりなして祈ること、本当に大切な祈りです。
さらに、キリストの十字架の愛によって、互いに愛し合うなら、祈りは天の父に聞いていただけます。
私たちはだれでも祈りの必要を覚えて、その課題を持っています。だれと祈っているのでしょうか。
今日から、あらためて祈りの友を見つけて心を合わせて祈りましょう。家族でも、信仰の友でもだれでもよいのです。
パウロは、第3回目の伝道旅行の終わりに、ミレトスの港にエフェソの長老たちを招いて、告別説教をしました。もう再び会う機会はないことを覚えて、皆は涙を流しました。そして、パウロや長老たちは皆一緒にひざまずいて祈りました。
その後、船旅を続けたパウロ一行は、ティルスという港に着き、弟子たちの所に七日間泊まりました。
弟子たちは、エルサレムで危難が待ち構えていることを予感し、パウロにエルサレムへ行かない様にと勧めました。しかし、パウロをとどめることはできずに、出発の時には妻子らと共に町はずれまで見送ってくれました。そして、浜辺にひざまずいて祈りました。
ほんとうに美しい祈りの光景です。
ユダヤ人は立って、顔を上げて両手をあげて祈りました。パウロたちはひざまずいて祈ったのです。
これは祈りの体の姿勢よりも、心の姿勢を表すのです。
天の父の前に遜り、罪の悲しみや、心の痛みを祈る時には、体も心も低くするのではないでしょうか。
これは祈りの心の姿勢です。主イエスのたとえ話の、ファリサイ派と徴税人の祈りの姿勢を思い出してください。ファリサイ派は立って心の中で自分を誇りました。徴税人は遠くに立って、目を天に向けることもせず、胸を打ち叩いて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と祈りました。義とされたのは徴税人でした。
私たちはどのような心で祈っているでしょうか。
さて、主イエスは、二人でも三人でも主イエスの名によって集まる所に、一緒にいてくださる、臨在があることを教えてくださいました。
主イエスが私たちと共にいてくださいます。
私たちは一人になり、父なる神と一対一で祈ることをしています。密室の祈りです。大切な交わりです。欠かすことのできない祈りの時を大切にしましょう。
しかし、それだけではなく、一つの心となって共に祈ることも大切なのです。
二人、三人でよいのです。主イエスが共におられることを知るでしょう。臨在の主を崇め、祈り続けましょう。
祈りの結果は明白です。生きておられる真実の神、主イエスとその御言葉の真実さを体験として知るでしょう。
クリスチャンは祈る人です。聖霊により、主イエスの名により、天の父に祈ることを知っている人たちです。祈りにより生きておられる神を体験できるのです。
祈りましょう、兄弟姉妹は祈りの友です、一つになって、心を合わせて、教会でも家庭でも祈りましょう。生きておられる主イエスを体験しましょう。

今週のみことば
「また、はっきり言っておくが、 どんな願い事であれ、
 あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、
 わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
 マタイによる福音書18章19節


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