阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年8月6日
第1聖日礼拝
「地の塩、世の光」
マタイによる福音書5章13-16節

 暑い毎日ですが、主イエスによってすべてが守られ、きょうも礼拝をささげることができました。心から感謝します。
礼拝は私たちの信仰と生活の基本です。礼拝から始める一週間のすべてに祝福があることを信じます。
主イエスは、公の生涯を始められると、ガリラヤ中を巡られて神の国を宣べ伝えられました。
また、ガリラヤ湖の漁師であった、ペトロや弟のアンデレ、ゼベダイの子のヤコブやヨハネを弟子とされました。
主イエスは神の言葉を伝え、病気の人々を癒されました。それで、ガリラヤやデカポリス、エルサレムからも群衆が集まってきました。
主イエスは、群衆をご覧になり、山に登られて弟子たちや群衆に教えられました。「山上の教え」です。
私たちが信仰によって歩もうと思うとき、これらの教えをいつも思い返していきたい、大切な教えです。
主イエスは、あなたがたは地の塩、世の光だと宣言されました。
これから地の塩になりなさい、世の光になりなさいと言われたのではなく、地の塩、世の光だと言われたのです。
地や、世とは、私たちが今生きているこの地上の事です。生活の場です。
この世で地の塩、世の光であることを教えてくださいました。
主イエスを信じて救われた者の歩み方です。
塩は、生活の中でどのような働きをするのでしょうか。毎日大変な暑さが続いています。塩分が不足すると体を維持する事が出来なくなります。経口補水液を使用する人も多いのですが、補水液には塩分と糖分が入っていて、体を潤し、脱水から守る働きがあります。
普通の水や糖分だけでは脱水を治すことはできません。塩分が必要です。ですから、塩は命を維持するために大切で人にとって必要不可欠なものなのです。
私たちは、現在塩を何も苦労することなく、安価で手に入れることができます。
しかし、昔は塩は貴重で高価なものでした。世界では岩塩を使用することが当たり前でした。
オーストリアにザルツブルグという町があります。モーツアルトが生まれた町として、大変有名です。
ザルツは塩を意味します。ブルグは砦です。ザルツブルグとは塩の砦です。
ザルツブルグ近郊で豊富に得られる岩塩によって大変うるおい、栄えた町です。
そのように、塩と言えば岩塩と考えられるのですが、岩塩には不純物が含まれていて、品質の悪いものは塩分が無くなっているものもあったようです。
塩に塩気が無くなるとは、塩の働きをすることができないということなのです。
塩気のない料理は食べられないでしょう。塩は食料の腐敗を防ぎます。また、食物の保存にも役に立ちます。
地の塩として生きるとは、この世の中で塩の役割をして生きることです。
主イエスは、塩気のなくなった塩について、きびしいお言葉を語られました。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイ5:13)もし、そうなってしまうなら大変なことです。
マルコによる福音書には、「人は皆、火で塩味をつけられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9:49,50)とあります。
地の塩とされた者は、「火」によって塩味を付けられるのです。
聖霊の火です。聖霊は地の塩である私たちに塩の味をつけてくださるのです。
自分自身の内に塩を持つなら、互いに平和を保つ事が出来るのです。
コロサイ書に、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば一人一人にどう答えるべきか分るでしょう。」(コロサイ4:6)とあります。
これは、相手が喜ぶような事だけを語るという意味ではありません。
恵みの言葉、人の霊的成長をもたらすような言葉を語るようにという御言葉です。
互いの信仰を励まし合い、主イエスに従う事の恵みを語り合える言葉は、恵みに溢れています。
地の塩とされた私たちは、塩で味付けられた言葉を語ります。
なぜなら、聖霊が私たちの内にお住まいくださっているからです。
主イエスはさらに、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と教えておられます。
あなたがたはこれから世の光になるとは言われません。世の光だと宣言されました。
山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」(マタイ5:14,15)と教えてくださいました。
「そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:16)と続けられています。
山の上にある町はかくれることができません。ともし火をともしてわざわざ升の下に置く人はいません。
ともし火はもっとも光を照らす効果がある所に置くのです。燭台の上に置くなら、家中を照らすことができます。
私たちはすでに地の塩、世の光としていただきました。大切なことは、地の塩、世の光である自分が、この世でどのようにそれを表していくかということなのです。
主イエスは、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)と続けておられます。
主イエスが教えておられる「立派な行い」とは、どのような行いなのでしょうか。
地の塩、世の光とされた者は、主イエスの十字架をいつも身に負い、神を崇め、賛美します。
日曜ごとに教会に集まり、礼拝することは、信仰の証しであり、世にまことの光を輝かすことなのです。
地の塩、世の光とされた者は、どのような時にも喜び、いつも祈り、感謝の生活を送ります。
主イエスを信じていない人々の中で、その喜び、感謝、祈りが現わされて行く事こそ、「立派な行い、良い行い」であり、御心にかなった生活となります。主イエスの十字架によって救われた者は、試練や困難にあっても、いつまでもうつむいている必要はありません。なぜなら、生きておられる主がたちどころに救い上げてくださるからです。試練は生きておられる救い主を体験できる時なのです。
この世は、罪と闇の世です。暗ければ暗いほど小さな光は輝きます。
小さな光でも暗闇を照らすことができるのです。
私たちは暗闇の中で、主イエス・キリストの光を照らします。人々はその光にやってきます。
塩で味のついている言葉を語り、魂に慰めを祈る事が出来ます。
それこそが、「立派な行い」であり、天の父はあがめられるのです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ9:1)という御言葉があります。
その光こそ主イエスであり、先に救われた私たち一人一人であり、救いと命をもたらす光であることを覚えましょう。
私たちを地の塩、世の光としてくださった、救い主を崇め、御心に従って、主の御業に用いられていきましょう。


今週のみことば
「自分自身の内に塩を持ちなさい。
 そして、互いに平和に過ごしなさい。」
 マルコによる福音書9章49節



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