阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年9月3日
第1聖日礼拝
「人生の土台」
マタイによる福音書7章24-27節

 今年も早いもので9月を迎えました。2023年もあと4か月です。私たちそれぞれが、毎日どのように歩んできたのかを思い巡らす季節ではないかと思います。
主を見上げ、きょうも礼拝をささげて参りましょう。
主イエスを信じた者は、その十字架によってすべての罪が赦され、神の子とされて永遠の命をいただくことができました。
十字架にはすべての罪を完全に赦す力があります。
かつては罪人であったのに、今は神の子とされたので、賛美と感謝の生活を送ります。
また、主イエスを信じて、祈ることができるようになりました。これも大きな恵みであり、神の子の特権です。
天地を造られた真の神を父とお呼びして、お交わりができる、会話を交わせるのです。測り知れない恵みです。
神の子としてのあらゆる特権をいただき、祈りながら主イエスの後に従うことも大きな恵みです。
「苦難の日には、私に呼びかけよ。私はあなたを助け出し あなたは私を崇めるであろう。」(詩篇50:15 聖書協会共同訳)。
主イエスは、悩みの時、苦しい時にはわたしを呼びなさいと教えてくださるのです。救いの御手はいつも差し出されて、私たちは主を崇めます。
主イエスは、御言葉をもって私たちを養い、導きます。御言葉は魂の糧です。
マタイによる福音書5章から、山上の教えが記されています。主イエスを信じ、従う者に対する教えです。
私たちは主を信じる者の生き方を教えられます。
私たちが様々なことで息詰まるような時、山上の教えによって目が開かれるのです。
主は、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)と、教えておられます。
私たちは何を求めているのでしょうか。何を探しているのでしょうか。個人的な必要の為に祈り求める事が多いです。求め続けましょう。また、魂が救われるよう、さらに求め続けましょう。主イエスは祈りに必ず答えてくださいます。
道を求めている兄姉もおられるでしょう。閉ざされていると思われる門は開くのです。
さまざまな黄金のような御言葉が与えられていることに、驚きを持ち、感謝をささげたいと思います。
主イエスは、山上の教えの最後に、家と土台のたとえを話されました。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:24−27)
そのように教えておられます。
主イエスは私たちに、主の御言葉によって生きるようにと、教えておられることを心に留めたいと思います。
私たちは、信仰はことばや口先だけのものではなく、生活であることを知っています。
主イエスは、私たちに、どんなに真理の言葉を聞いても、ただ聞くだけで生活していないなら、聞かなかったのと同じことになってしまい、自分にとって厳しい試練に遭った時、せっかくの御言葉が役に立たないと、言われるのです。
主イエスは大変分かりやすいたとえをお話になりました。

見た目では、同じような家が2軒建てられました。同じような大きさで外見も広さも同じように見えます。
また、建てられた土地も同じで、一方は安全な土地、一方は危険な土地ではありませんでした。
このたとえを読むとき、最初から建てる場所が違っていたと思う人もいるかもしれませんが、主イエスはそうは言われていません。
ルカによる福音書の平行記事によると、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」(ルカ6:47、48)とあります。
ルカによる福音書によれば、家の土台となる岩は見えていなかったのです。岩は地面の下にありました。当然、掘り下げていかなければ岩には到達できません。主イエスがかしこい人と言われた人は、懸命に土を掘っていきました。岩に到達するまで掘り続けました。時間も労力も大変でした。しかし、根気よく掘り進みました。一方、愚かな人は地面を掘り下げることはしませんでした。砂の上に直接家を建ててしまいました。同じような土地に同じような家が建ちましたが、この二つの家は見えない所が全く違っていました。
土台は見えません。しかし大切なそれがしっかりしていなくては、家は建ちません。
大嵐にあったとき、岩の上の家は無事でした。土台がしっかりしていたからです。砂の上の家は無残でした。倒れて、しかもその倒れ方はひどかったのです。
土台が何に置かれているかは、すぐには分かりません。しかし、必ず分る時がやってきます。
岩の上に土台を建てた人は、「賢い人に似ている」とありますが、これは将来、賢い者とされるという意味があります。
今は分からないけれども、やがて大きな嵐がやってきたとき、違いがはっきり分かるのです。
試練の時に、主イエスの言葉を聞いて生活しているか、聞くだけで終わるかの結果が現れます。
人は、山上の教えを読んだり、聞いたりして、それをしっかり守り通し、従い続けることはできるのでしょうか。岩の上に家を建てた賢い人になれるのでしょうか。
主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と教えてくださいました。
実行するには大変難しい御言葉ではないでしょうか。
しかし、主イエスがそのように言われたからには、しっかりと受け入れなくてはなりません。自分にはできませんと言って、あきらめてしまうのでしょうか。
主イエスは、それでよいとは言っておられません。ではどのように考えたらよいのでしょうか。
主イエスがそのように教えておられるなら、私の力ではできないけれども、しかしそうしたいと決心して踏み出すなら、必ず聖霊を通して力が注がれ、御言葉に従う力と喜びが与えられます。
御言葉に従おうとするなら、十字架で救われ、罪許されていながら、愛のない自分を見出すことが必ずあります。
従いたいのに、従えないという苦しみを覚えることもあるでしょう。
だからこそ、十字架の救いが必要であり、罪許されたことを感謝し、主イエスを仰ぐのです。
一歩一歩主イエスに共に歩んでくださいと、祈りながら進むときに、主イエスは御言葉に従う力と喜びを与えてくださいます。
「人間にはできないことも、神にはできる。」(ルカ18:27)と、主イエスは言われました。
人の魂に働きかけ、造り変え、主イエスと共に御言葉によって生きることの喜びに満たしてくださいます。
私たちの信仰と生活の土台はどなたに置いているでしょうか。主イエスという永遠の岩の上に建て上げているなら、神の祝福の中に揺るぐことなく立ち続けるのです。主イエスの十字架の愛という岩に土台を置いて、信仰の家を建て上げましょう。

今週のみことば
「御言葉を行う人になりなさい。
 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」
 ヤコブの手紙1章22節


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