阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年9月10日
第2聖日礼拝
「幸いな人生」
マタイによる福音書5章1-3節

 主イエスに守られて一週間を過ごし、主の日に礼拝をささげられる恵みを感謝します。
今日も私たちの救い主に、感謝と喜びをもって近づきましょう。
主イエスはおよそ30歳で、神の国の福音を宣べ伝える公の生涯に入られました。
ガリラヤでの宣教を始められて、諸会堂で教えられ、福音を伝え、病気を癒されました。
ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から大勢の群衆が集まって、主イエスに従いました。
この群衆は、主イエスに何を求めて従ったのでしょうか。
主イエスは自分に良い事をしてくださる、生きる上で必要な御言葉を下さると期待していました。主イエスは群衆をご覧になり、山に登られて口を開き教えられました。
主イエスは8種類の幸いな人について教えておられます。
全ての教えの形式は同じです。まず、「幸いである」という御言葉を語られて、その後にその理由を教えられました。
最初は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)という教えでした。
心の貧しい人々という言葉は、本来「霊的に貧しい」という意味です。
日本語の聖書では、心の貧しい人と訳されているので、心の狭い人の事を言うのかと、意味を取り違えることがあるかもしれません
主イエスは、真の神に対して従いえない人の姿を指摘されました。
旧約時代には、十戒が与えられ、律法が与えられてそれらを守れば祝福されると考えていました。
ファリサイ派も律法を守ることを固守し、従っていると思っていましたが、完全に守ることは誰にもできないのです。
なぜ、神は人に対して律法を教えられたのでしょうか。
それは、主イエスが来臨するまでわかりませんでしたが、人は律法を守って救われるのではなく、主イエスの十字架の贖いによって救われることを知るためでした。
人は律法を守って救われるのではなく、主イエスの福音によって救われます。
ガラテヤの信徒への手紙には、「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下(もと)にはいません。」(ガラテヤ3:24,25)とあります。律法は人をまことの救い主に導くためのものでした。
今や、人はキリストの福音を信じて救われ義とされる、恵みの時代が到来しました。
主イエスが教えられる心の貧しい人とはどのような人なのでしょうか。
それは自分の罪深さにうなだれ、心から神に向かって救いを求める謙遜な人を表しています。
真に頼るべき方、永遠の命を与えてくださる真の神を求める人、それは魂の貧しい人なのです。
人は何を頼りに生きるのでしょうか。まず経済的なことを頼りにします。経済力は大切ですが、本当に頼りになるのでしょうか。
金銭は魂を救うことはできません。お金で永遠の命を買うことはできません。人の愛情を求めてもお金で得ることはできません。
私たちは空気を吸って生きています。空気は買えません。
健康も買うことはできません。お金で罪が赦されることはありません。
私たちが魂も体もこの地で生きることが出来るように、神が必要を備えてくださっていることを、いったいどれだけの人が知っているでしょうか。
人は神の恵みによって生かされているのです。
主イエスは、私たちがこの世で歩む術を教えてくださいました。
必要の為に思い煩うことはない、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33,34)
と約束しておられます。
人にとって最も大切なことは、主イエスを救い主と信じて受け入れ、救われることです。
差し出されている救いの御手をつかめるのは、心の貧しい人であることを覚えたいと思います。
主イエスは、「悲しむ人々は幸いである」、「柔和な人々は、幸いである」、「義に飢え渇く人々は、幸いである」、「憐れみ深い人々は、幸いである」、「心の清い人々は、幸いである」、「平和を実現する人々は、幸いである」、「義のために迫害される人々は、幸いである」、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と教えられ」、それぞれの報いを続けておられます。
二番目以下の教えも、自分の魂の貧しさを知り、受け入れてから初めて心に落ち着く教えです。
人が自分の信仰について自覚できるのは、すべてが順調に進んでいるときではありません。
人生には、突然大嵐が吹き寄せるようなことがあります。その時に本当の自分の信仰がわかるのです。
そのような時、神を信じながらも自分の力で解決しようと思い、なかなかうまくいかないことがあります。なぜ、主に向かって声をあげないのでしょうか。
主はたちどころに救いの御手を差し伸ばしてくださいます。
人はもともと罪を持ち、肉の力に頼る所があります。
旧約聖書に、イサクの息子エサウとヤコブの出来事が記されています。エサウとヤコブは祈りによって与えられた双子です。
外見も性格も大きく違いました。ある時狩りから帰ったエサウは、おいしそうなスープを料理しているヤコブに、スープを求めました。空腹だったのです。ヤコブは、長子の特権を交換条件にしました。
エサウは、長子の特権が何にも代えられない霊的、具体的祝福であるのに軽視しました。一杯の食べ物と長子の特権は交換すべきものではないのです。
ヤコブは父イサクから祝福を受けましたが、エサウに恨まれて叔父ラバンの許へ逃亡しました。
叔父の許でも良く働き財産を造り、やがて妻と子供たちを連れて帰郷することになりましたが、エソウの事が気になり、ヤボクの渡しに一人残っていました。そこで神と格闘したのです。
神はヤコブの腰の関節を打って去って行かれました。
この時ヤコブは腰の関節が外れるとともに、心も砕かれるという体験をしました。
何でも自分で出来るし、財産も築いた。長子の特権も奪い取り、祝福もすべて自分のものと思っていましたが、痛みと共に心も砕かれたのです。押しのける者から神の王子(イスラエル)に造り変えられました。この時、魂の貧しい者に造り変えられました。
エサウもヤコブを許していて、和解する事が出来ました。
神の国は神の臨在であり、神の支配される所です。
私たちは主イエスの十字架によって罪許され神の子として、臨在の中に生かされています。私たちの国籍は神の国なのです。
義とされたことの幸いを覚え、御国が来ます様にと祈りながら、その臨在の中に生かされ、御心に生きるように、祈りながら進んで参りましょう。年老いても、若くても神の祝福は限りなく神の子に注がれるのです。
心の貧しい者こそ、主イエスと共にある者であって、真に幸いな人生を歩むことができるのです。
主イエスを仰ぎましょう。さらに御言葉を求めましょう。

今週のみことば
「心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。」
 マタイによる福音書5章3節


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