阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年9月17日
第3聖日
召天者合同記念礼拝
「イエスを見つめながら走り抜こう」
ヘブライ人への手紙12章1-3節

 今年も先に天に召された兄姉を記念して、主を崇め礼拝をささげます。
人はこの世に生を受けて歩みますが、やがて地上での歩みを終える時がやってきます。
クリスチャンは天に移されることを、「召される」、と表現します。
家族や親しい友を失うことは、大変な痛みであって、受け入れがたく、長い間心身にダメージを受けてしまう人も多いのです。
しかし、聖書の約束は希望に満ちています。なぜなら、主イエスの十字架で罪許され、永遠の命をいただいて召された人は、本来おるべきところに召された、すなわち神に呼んでいただいたので、神の御許で神の愛と喜び、平安に満たされているからです。
やがていつか私たちも召される時がやってきます。それは悲しみではなく、永遠の御国の希望であり、先に召された、愛する方々との再会の時なのです。
私たちは、この世で生きているのではなく、生かされていることを心に留めて、やがて御国に移されるまで、御心に沿った歩みをして参りたいと思います。
ヘブライ人への手紙は、他の手紙と違ってはっきりとした受取人が記されていませんが、改宗したヘブライ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙だと考えられます。
11章には、信仰によって歩んだ人々のリストが記されています。その人々の事を、「おびただしい証人の群れ」と12章1節には記されています。
御言葉は、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ12:1)と教えています。
11章には、20人の信仰によって歩んだ人々の名前が記されています。「信仰によって」という言葉が20数回使われていて、信仰の章と呼ばれている箇所です。
その人たちが、私たちを囲んでいると記しています。
ローマ帝国は造り上げた町には、必ず円形競技場を造りました。
2000年以上たった現代でも各地に遺跡が残っていて、一番有名なのはローマのコロッセオでしょう。
使徒言行録19章には、エフェソでパウロたちが宣教したことで大騒動が起こり、腹を立てた群衆が劇場になだれ込んだという記録がありますが、この劇場とは円形競技場で、今もエフェソに遺跡として残っています。
客席には多くの信仰の証人がいて、私たちが信仰の生涯を走り通すのを見守っていると教えています。
信仰によって、地上での歩みを終えたクリスチャンたちもまた、その席に着いて、応援しているのです。
私たちの地上の歩みには、楽しいこともたくさんありますが、反対に苦しいことや、悲しいことも多いと思います。
走ろうと思っても足踏みになってしまうことも多くあります。
試練の時に、なぜ神様は試練をお与えになるのかと苦しむこともあります。
私たちは試練の時、苦しみの時に主イエスを見上げて、信じて進むのです。主イエスの御言葉を信じて待ち望みます。
もし、試練の中にあるなら、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Tコリント10:13)とあるように、素晴らしい約束付きの試練であることを心にしっかりと留めておきましょう。
試練を通して、義という平和に満ちた実を結ぶ事が出来るのです。
信仰によって走りとおすためには何をどのようにしたらよいのでしょうか。
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てる」(ヘブライ12:1)必要があります。
競争する人は、ひらひらとした服を着て、重い荷物を持ったままで走ることはありません。
陸上競技の選手たちは、それにふさわしい備えをしています。
重荷とは、思い煩い、心配事、心身の不調、心の罪を指すのです。
主イエスは、「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(マルコ11:25)と教えてくださいました。
人を赦すことは難しいかもしれません。しかし、主がそのように言われるなら、私たちは従うのです。
自分の力では赦せないのです。だからこそ主イエスの十字架を仰ぎます。
私たち罪ある者のために、罪のない主イエスが十字架で死なれて、すべての罪を贖って下さった。すべての罪が赦された者は、赦す者に変えられます。
私たちは思い煩う者です。しかし、御言葉はなんと教えているでしょうか。主イエスが招いて下さいます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11:28―30)
罪、重荷は主イエスに委ねる、お渡ししてしまえばよいのです。
私たちの重荷、罪の為に主イエスは十字架で血を流して下さったことを忘れてはなりません。
罪、重荷は主イエスに委ねて、走るのです。
また、「忍耐強く」走り抜こうとあります。忍耐がいります。
人には、何かを決心してもすぐにやめてしまうようなところがあります。忍耐とは、我慢ではありません。
信仰の決心を持ち続ける、何があっても主イエスから離れないということです。
私たちがゴールを目指して走れるように、コースから外れない様にと教えています。
さらに、私たちの目はイエス・キリストを見上げます
主イエスは、「信仰の創始者、また完成者」(ヘブライ12:2)です。
私たちが信仰によってスタートした競争を、その各自のコースを走り通すことができるよう整え、イエス・キリストにゴールできるようにしてくださいます。
私たちはその歩みの中で、主イエスという道から外れてはいけない事、イエス・キリストというゴールまで、走り通すために罪、重荷をかなぐり捨てる事、主イエスから目を離さないで進むこと、それが信仰者の人生であることを覚えましょう。
先に召された、愛する兄姉もそのようにして人生を全うされて、私たちを応援しておられます。
召された家族や、友人、愛する人々は、私たちを取り巻き、私たちとの再会の時を主イエスと共に待っているのです。
主イエスを信じる者には、永遠の命が与えられています。
永遠の命は、召されてから与えられるのではなく、今私たちは永遠の命に生かされています。
先に召された兄姉と同じ命に生かされています。
永遠の命を喜び、再会の希望を感謝し、自分に与えられている信仰のコースをしっかりと走り抜きましょう。
主イエスを見上げ、目を離さないで走り続けましょう。
先に召された人にも、私たちにも備えられているのは、義の栄冠であることを覚えましょう。

今週のみことば
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、
 決められた道を走りとおし、
 信仰を守り抜きました。
 今や、義の栄冠を受けるばかりです。
 Uテモテの手紙4章7-8節



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