阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年10月1日
第1聖日礼拝
「キリストのとりなし」
ローマの信徒への手紙8章34節

 10月最初の日曜日に、心を合わせて礼拝できる恵みを感謝します。
10月に入っても、暑い日が続きそうです。体調を崩しやすい季節ですので、互いの健康の為にも祈りましょう。
 主イエスはすべての人を罪から贖うために、この世に来てくださいました。
人は心の罪を持ち、神の愛から遠い者でした。罪を罪とも知らず、自分の思いによって生きていたのです。
罪の為に神との関係は断絶したままで、滅びに向かって進むほかはありませんでした。
そのような人を救うために、神はキリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストは神の愛の表れです。
主イエスは、罪のないお方であるにもかかわらず、罪を背負われて十字架に架り、命を捨てて下さいました。
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)
この御言葉にあるように、私たちすべての者の罪のために、彼、すなわちキリストが身代わりとなって罰を受けてくださいました。
その打たれた傷によって私たちは罪を許されました。神の子とされ、永遠の命に生きる者となったのです。
主イエスを信じるまでは、罪を罪とも思わず、心のままに生きていました。聖書が教える罪は、犯罪の事ではありません。人の心の中にある罪です。真の神と断絶してしまい、自分の思うように生きて、信じようとしないことが根本的な罪で、自己中心です。
神に創造されたアダムとエバは神の言葉に背いてしまいました。エデンの園で、神との交わりを持ちながらの毎日で、何の不足もありませんでした。
神はたった一つだけ、二人に禁止していることがありました。
善悪の知識の木からは、決してその実を取って食べてはならないという命令でした。「食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17)と教えておられます。
ところが、エバが蛇にそそのかされ、美しくおいしそうな木の実を食べるという誘惑に勝てませんでした。さらにアダムにも渡したので、アダムも食べてしまいました。
夕方、神が園の中を歩く音を聞くと、今までは喜んでお迎えできたのに、御顔を避けて木の間に隠れました。罪の心を自覚し、神に背いたという罪悪感で、神との交わりが出来なくなってしまったのです。
神は人を創造された時、心を与え、すべてを選択できる能力を下さいました。何が善で、神がお喜びになる事かを選択できるように造られたのです。
残念ながら、あっさりとアダムとエバは誘惑に負けて罪を犯しました。
その時に罪が入り、人は霊においても、肉においても死ぬ者となりました。
人は罪を持って生まれてきます。そのままでは滅びしかありませんでした。
神は救いの手を直ちに差し伸べてくださいました。
アダムは、罪を犯して全世界に罪と死をもたらしました。しかし、イエス・キリストの救いの計画が実行されました。
最初のアダムは罪と死をもたらしましたが、最後のアダム(キリスト)は、救いと永遠の命を与えてくださいました。
「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」(Tコリント15:45)と記されています。
主イエスは「最後のアダム」と呼ばれて、罪ある者を救うため、十字架の道を最後まで歩まれました。この最後のアダムを信じて受け入れる人は、だれでも救われ、罪の赦しを受けて、新しい命に生かされるのです。
主イエスは十字架の上で、御自分を十字架に架けた人々の為に祈られました。
イザヤ書53章に、「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:6)とありますが、その預言の通りに、イエス・キリストは受難の道を進まれました。
人は、自分が思うように道を歩むのですが、命に至る道ではありませんでした。道を誤り、危険にさえも気が付きませんでした。
人々は主イエスを嘲り、ののしり、鞭打ちました。ローマの兵士たちは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(ルカ23:37)と嘲(あざけ)りました。
主イエスの十字架の右と左には犯罪人が十字架に架けられていました。彼らの一人も十字架から主イエスをののしりました。
しかし、もう一人の犯罪人は、それを諫め、主イエスに向かい、天国の希望をくださるようお願いしました。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)。
この犯罪人の生涯は、罪と苦しみの生涯だったのでしょう。人に害を与えるような生き方だったのでしょう。しかし、最後の最後に救いをいただくことができました。
「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ23:43)
十字架の上で悔い改めた犯罪人は、御国に迎え入れられたのでした。
主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
神の子であるにもかかわらず、その謙遜さは驚くべきものです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6−8)
謙遜と従順が主イエスのお姿でした。
もし、十字架という神の救いの御計画がなく、また、主イエスの十字架に向かわれる謙遜と従順がなければ、救いはありませんでした。
私たちも今なお罪の中を彷徨い、行くべき道すら分からなかったでしょう。
主イエスは十字架の上で人々の為に執り成しの祈りをなさいました。ご自分に敵対し、ののしり、辱めを与えた人々の為に祈られたのです。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』(ルカ23:34)。
 主イエスは、救い主を十字架に架けているという大変な罪が分からない人たちのために、主イエスを排斥し、敵視した人々、実際に十字架に架けたローマの兵士たちのために、そして、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆のために、主イエスが十字架に架けられる理由を見出せないのに、人々の声に従ったポンテオ・ピラトのために、そしてすべての人々の為に祈ってくださいました。
「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」
(ローマ8:34)
すべての人々が福音を受け入れて救われるまで、祈りは続きます。
先に救われた私たちも祈ります。私たちの家族や、友人のために救いを信じて祈り続けます。
私たちの信仰を反対する人々の為にも祈ります。
主イエスの執り成しの祈りは、続きます。
私たちも熱心に、怠ることなく、疲れることなく信じて祈るのです。
神の御業は必ず起こります。救いの御業は必ず現れるのです。
主の十字架を仰ぎましょう。さらに執り成しの祈りを続けましょう。


今週のみことば
「父よ、彼らをお赦しください。
 自分が何をしているのか知らないのです。」
 ルカによる福音書23章34節


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