阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2023年10月8日
第二聖日礼拝
「賛美と感謝」
ルカによる福音書17章11-19節

 主イエスの恵みと守りがいつもあることを感謝します。
今朝も心を一つにして礼拝をささげましょう。
主イエスを信じてから、心が平安で満たされて、賛美と感謝の生活を送ることができるようになりました。クリスチャンの大きな恵みであり、特権です。また、いつも魂を養う御言葉を与えてくださり、魂が生かされていることも何よりの感謝です。
主イエスはエルサレムへ向かわれる途上で、サマリアとガリラヤの間を通られました。主イエスのこの旅は、十字架に架けられるためにエルサレムへ向かわれる旅でした。
ある村へ入ると十人の、重い皮膚病を患っている人が主イエスを出迎えました。当時、彼らのような病気を持っている人は、ほかの人々に近づくことは許されませんでした。町の外で生活していて、町に入る時には大きな声で、「私は汚れています」と叫ばなければなりませんでした。
この病気は罪の結果と考えられていたので、体と心に大きな傷を持ちながら生きて行かなければなりませんでした。
家族と生活を共にすることができずに、孤独という苦しさとも戦わなければなりませんでした。生きながらも死んだ者のような、希望のない苦しい毎日でした。
彼らは主イエスが町々村々で神の国の福音を伝え、癒しをされていることを耳にしていました。それで、主イエスをお待ちしていたのです。
自分たちの病気は人には治せない。しかし、あの方なら癒して下さるという希望を持ちました。
それで、「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」
(ルカ17:13)と、大きな声で主イエスをお呼びしました。
主イエスに向かい、イエス様、先生とお呼びしていますが、先生という言葉は、弟子以外の人は使いませんでした。先生と叫んだ声にも、主イエスなら癒して下さると信じる心が表れています。
主イエスは彼らに、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(ルカ17:14)と言われました。
この時代、この病気が完治したかどうかを判断するのは、祭司の役目でした。レビ記13章、14章にその規定が細かく記されていますが、祭司は大変細やかに病気の様子を見て、完治しているかどうか判断しました。重い皮膚病かどうか判断するには何週間も必要でした。
また、14章には、皮膚病が癒された時、清めを受ける時の方法が記されていますが、犠牲のささげものをささげて、祭司が贖いの儀式を行いました。貧しい者は動物の犠牲をささげられませんから、その代わりに山鳩、家鳩を犠牲としてささげました。さらにオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉に、オリーブ油を整えてささげました。
清めのためには贖いの供え物が必要だったのです。
主イエスが十人に向かって、祭司たちの所に行って体を見せるように言ったとき、彼らの体はまだ元のままでした。
祭司たちの所へ行くのは、病気が治ったかどうかを判断してもらうためですから、まだ病気を持ったままなのに行く人はいません。
しかし、この十人は、祭司の許へ出かけて行きました。
そして、その途中で癒されていることがわかりました。
主イエスは救いと癒しを与えてくださる救い主です。さまざまな方法によって御業をなさることがよくわかる出来事です。
家族や自分の住んでいた町や村に住むことを許されず、同じ病に苦しむ人々との暮らしが続いていました。十人は主イエスの癒しの出来事を聞き、心を一つにして村まで出かけて行き、主イエスをお待ちしていました。
そして、たしかに癒されたのです。祭司たちの所に行って完治を宣言されれば、人としての生活に戻れるのです。
病気から心身ともに解放されたのですから、癒されていることに気付いたとき、どれほど嬉しかったことでしょうか。
10人全員が癒されたのです。癒された時、そのうちの一人は自分が癒されたのを知ると、大声で神を賛美しながらイエス様の所へ戻って来ました。
今までは、人のいる所へ出ると、「私は汚れています」と大声を出していました。
しかし、これからは神を賛美し、褒めたたえるために大声を出す事が出来るのです。
人生が変わりました。死んだような者が生き返ったのです。新しい生活を始める事が出来ます。
この人は主イエスの許に帰って来て、足元にひれ伏して感謝をささげました。ひれ伏すとは、神様を讃え、礼拝することです。
主イエスが誕生したことを知った東の博士たちは、救い主を訪ねて遠い旅を続けてユダヤにやって来ました。幼子を探し当てると、彼らはひれ伏して礼拝しました。持参した宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。博士たちの礼拝です。
主イエスの許に帰って来て礼拝をささげた人は、ユダヤ人ではありませんでした。サマリア人だったのです。
サマリア人とは、ユダヤ人と異邦人の結婚によって生まれた民族で、ユダヤ人は彼らを蔑んでいて、交わることも言葉を交わすこともありませんでした。十人は重い皮膚病という共通の病気だったので、一緒にいたのだと推察できます。そうでなければ、決して一緒にいることはありませんでした。
ユダヤ人である九人は、体が癒されて社会復帰できるようになったことを喜んだことでしょう。しかし、それで終わってしまいました。
体が癒されたことで満足して、癒して下さった主イエスを覚えることがありませんでした。
私たちも当然体を持っています。体の癒しを求めます。しかし、それだけで良いのでしょうか。
本当に大切なのは、主イエスの十字架による罪の赦しと、赦された者に与えられる永遠の命なのです。
この人たちは、主イエスなら癒して下さるという希望をもって、主に呼ばわりました。そして癒されたのです。そうであるなら、さらに主イエスを救い主として認め、心に受け入れて、救いをいただくべきでした。
主イエスは、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(ルカ17:17,18)と言われました。
主イエスは求める者に応えて、良きものを与えてくださいます。
それだけで満足してしまい、主イエスご自身と、その救いを求めているだろうか、私たちも自分自身を探らなければなりません。
恵みだけいただき、主イエスの許を離れて自分の道を行く事はないだろうかと思い返してみたいと思うのです。
主イエスの許に戻り、ひれ伏して礼拝をささげ、大きな声で賛美と感謝をささげているだろうかと、振り返ることは大切なことです。
主イエスは、癒されたサマリア人に御声をかけてくださいました。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
(ルカ17:19)
主イエスは、あなたが持っている真の神を信じる信仰があなたを癒し、救ったのだとお語り下さいました。
主イエスは、私たちと共にいてくださいます。毎日良い物を与えて満たしてくださいます。
良い物をいただくのは素晴らしいことです。それで満足してしまい、与えてくださる主イエスを忘れてしまうことはないでしょうか。
まことの救い主である主イエスご自身を求め続け、信仰によって恵まれ、癒され、救われたことを、声を大きくして感謝し、礼拝をささげる者でありたいと願います。
主イエスの前にひれ伏して、主イエスご自身を仰ぎましょう。
何にも勝って大切な永遠の命は、主イエスの十字架による贖いによっていただいたことを心に深く留めて、感謝と賛美をささげ続けましょう。

今週のみことば
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、
 大声で神を賛美しながら戻って来た。」
 ルカによる福音書17章15節


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